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ホーム > みどりのさと > 第5話 ~小規模校の代名詞 田原小学校、田原育英の地~
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今の田原小は移転・新築、田原中は新設・分離・開校

今、この田原地区には、四條畷市で最もマンモス校となった田原小学校と、そして、生徒数が300人を超える田原中学校の2校がある。
田原小学校は、明治6年5月10日、下田原の法元寺の地で、堀溝郷学校田原分校として開校し、明治10年9月に下田原地内に新築・移転したものが、平成2年の秋、パークヒルズ田原ニュータウンの開発に伴い移転したもので、創立143年を迎える歴史と伝統を誇る学校である。
一方、田原中学校は、同じくニュータウンの街開きに伴って、平成3年4月、新たに設置された新設校である。古い学校そのものの移転と、新しい学校の開設、まったく歴史の違う2校である。

●旧田原中は、昭和42年に廃校

この田原中学校の前身となった旧田原中学校の歴史を振り返ってみよう。
昭和22年、戦後、全国各地に誕生した中学校と同様に校舎整備が間に合わず、四條畷ゴルフクラブの地にあった六カ町村組合立飯盛青年学校を借用しての出発であった。が、あまりにも極寒の地であったことから、その翌年には現在グリーンホール田原の建つ地にあった隔離病舎を改装して移転する。そして、その翌年の昭和24年、田原小学校の敷地内に新校舎を建設し、再び移転して本格的な出発となった。当時の建設予算140万円で、普通教室3、管理室を備え、生徒総数74名、職員5名でのスタートだったと、記録に残る。
しかし、その後、パークヒルズ田原街開き以前の田原地区は過疎化が進行し、生徒数が極端に少なくなっていったことから、四條畷中学校への統合が決まり、昭和41年、四條畷中学校田原分教場と改名した上で、昭和42年3月、終業式と同時に廃校となった。
このように、旧田原中学校は、四條畷中学校に併合されたため、旧田原中学校の卒業生の名簿や学籍簿等、すべて、今も四條畷中学校にある。
現在の田原中学校は、平成3年4月1日に、四條畷中学校から分離・開校した新設校ということになり、田原地域に長年親しまれてきた名称のみ引き継いだものである。四條畷市内には、四條畷西中学校や四條畷南中学校がすでにあったことから、第4番目の中学校として開校する学校名を『四條畷東中学校』にしようとの議論があったが、われわれ、地域の声、歴史と伝統の残る「田原中学校の名前を残してほしい」との強い要望を受けての校名決定であったことが、思い出される。

↑下田原育英の地の公園(写真中央に建つ、田原育英の地の碑)

●田原小と旧田原中は同居していた

さて、話を田原育英の地に戻そう。
田原育英の地は、かつて、田原小学校と旧田原中学校のあった場所、すなわち、グリーンホール田原の北方、約50メートル、JA東部農協の北東、現在、20戸ほどの民家が建つ場所を云う。この民家の集まる、ほぼ中央に小さな公園があるが、ここに「田原育英の地」の碑が建つ。
私は、田原小学校を昭和36年、旧田原中学校を昭和39年に卒業した。
団塊の世代の生まれで、私たちの学年は、尤も生徒数の多い時で29名も居たので、結構賑やかなクラスであったが、前後の学年は、ほとんどすべて1学年、もちろん1クラス、15人前後であった。私たちの学年のみ、男子が18人いたことから、2組に分かれて野球やソフトボールができたことを覚えている。また、中学校当時、生徒会の役員も、確か3年を待たずにしていたと思う。人数が多いが故の事であった。

●校長室は一つ 書棚で仕切り二人の校長が同居

今も、よく覚えているが、一棟に、校長室、職員室があったが、校長室は一部屋であった。開き戸を開けて入ると、中央に書棚がおかれて二部屋に区切られており、確か左側に小学校長、右側に中学校長が座っていた。職員室は、二部屋で、小学校の先生と中学校の先生が仲良く勤務していた。
ここまで書いてくると、もうお分かりの事と思うが、小学校1年から中学校3年まで、もちろん1学年1クラスということで、クラス替えの経験がない。複数クラスがないと、切磋琢磨が起こらず、教育効果が上がらない、小規模校の弊害の一つと言われるが、田原地区に生まれ育った同窓生は、社会に出てそれなりに活躍していることを見ると、あながち小規模校はよろしくないと言えるのだろうか、と思う。
「お前等は、最高の教育を受けていることを忘れるな。国立の大學よりも、一人の教師が受け持つ生徒の数は少ないのだから。」と、某教師に言われたことを覚えている。このように教師と生徒の関係は密だったので、夏休みになると、夜に、宿直の先生の元を訪ねて、学校のプールで、月の明かりの下で泳いだことを覚えている。今となれば、もう時効の話だが、現在の教育事情を考えると、隔世の感を禁じ得ない。今の子どもたちには、想像すらできないのではないか。

●保育園児から中学生まで、地域挙げての運動会

また、極めつけは、秋の運動会である。
近隣の保育園や幼稚園からも参加があり、保育園児・幼稚園児から小学生、中学生が一堂に会しての、地区挙げての秋の行事であった。だから、この日は、保護者はもちろん、家族挙げての応援となり、田原地区は空っぽになったものである。
そして、何よりも小規模校であるが故に、出場機会が多い。小学校低学年・高学年・中学校とほぼ3回に一回出場となり、世話は保護者PTAの仕事だった。もちろん、保護者のプログラムもダンスや綱引き・パン食い競争、障害物競走、借り物競争など数多く組み込まれた。
  そして、一番のプログラムは、昼食前に行われる中学生のマラソン大会であった。この頃のマラソンは、田原地区を一周してくるもので、「ヨーイ・ドン!」で中学生が出発した後、校庭では、幼稚園児の円舞が披露される。幼稚園児が席に戻るころになると、マラソンに出た中学生が、順次校庭に戻ってくるという寸法である。私はマラソンが得意だったので、確か1~2回はトップで帰ってきたと思うが、会場から割れんばかりの拍手をもらったことが思い出される。

●朝日新聞に掲載された「兄弟みたいな卒業生」の記事」

このように、一つの校長室に二人の校長、保育園児から中学生まで一緒の運動会と、大阪で小規模校といえば田原小学校、そして、田原小学校といえば小規模校の代名詞のように言われたが、今、その面影はどこにもなく、田原育英の地にひっそりと眠っている。
私の三級上の卒業式の様子が、当時の朝日新聞に掲載された。
卒業生は、確か7人で、その見出しは、「兄弟みたいな卒業生」であったと思う。

2016.7.25

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