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ホーム > みどりのさと > 第6話 ~千光寺跡・田原レイマン、日本最古のキリシタン墓碑~
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田原城主、田原対馬の守はキリシタン武士だった

 田原の里に関わる様々な歴史的遺産を語る上で、日本が誇る遺物の一つ、キリシタン武士、田原対馬の守のキリシタン墓碑を外すわけにはいかない。
平成14年2月14日、千光寺跡の発掘調査が行われていた日、雪舞う中で出てきた墓碑。何と、ロマンチックではないか、と思ったものである。発掘現場にいた四條畷市教育委員会の野島学芸員(当時)は、刻まれている文字らしきものを発見し、期待が膨らむ中で、桜井敬夫(元教育長・故人)先生に「すぐに来てください。十干十二支もお忘れなく、お持ちください。」と、興奮して伝えた、と聞いたことがある。
刻まれた文字などの解読にはしばらく時間がかかったようであるが、「十字架の下にHのような文字(記号)」と「天正9年辛巳 礼幡 8月7日」と刻まれていることが分かり、田原城主・田原対馬の守のキリシタン墓碑であることが分かった。
(写真:発掘現場に阪奈サナトリウムが掲示した看板)

●京都に滞在した織田信長に謁見した田原の殿様

この発見によって、田原城主・田原対馬の守(クリスチャンネーム:レイマン)の存在が明らかになったが、この裏付け資料もある。
ポルトガル人の宣教師、フロイスが本国に送った数々の書簡に、度々出てくるのである。
天正2年(1574)堺発信・同僚宛書簡には、「田原Tauoraの城主がキリシタンに改宗したことを喜び、家臣がキリシタンになる事への期待」が書かれており、また、天正3年(1575)堺発信・カブラル宛書簡には、「フロイス、オルガンティーノと一緒に、池田丹後の守、三箇マンショ、結城ジョアン、田原レイマンらが、信長に挨拶に赴いた」旨も記されている。
また、グスマン東方伝道史・下巻第8編第17章には、天正5年(1577)ごろ、「田原に教会が建てられた。」旨の記述も残っている。
以上の史料から読み取れることは、郷土、田原の殿様がクリスチャン大名であったこと、更には河内キリシタンの名だたるメンバーとともに、当時京都の相国寺に滞在していた織田信長に謁見していたこと、等が分かる。
田原の歴史と全国の歴史を結び付けることとなったフロイスの書簡の発見に大いに感謝している。
“織田信長”に謁見という記録は、田原レイマンの一地域に止まらない全国規模・都につながる活躍を想像できる大きな事件である。
そしてまた同時に、天正9年(1581)という年号のキリシタン墓碑は、九州の長崎や河内等、日本に残る多くのキリシタン墓碑の中で、最も古いもの、とのお墨付きを頂いたことである。
この田原から出土した田原レイマン・キリシタン墓碑が、現在発見されているキリシタン墓碑の中で日本最古という事だが、恐らく、キリシタンの布教の歴史から見て、この墓碑より古い墓碑は、今後出てこないであろうといわれている。我が郷土から、日本最古の歴史的遺産が出たことは大いに喜ばしいことと思っている。

●キリシタン墓碑は歴史民俗資料館で常設展示、千光寺跡地は田原消防署東に移築展示

 現在、千光寺跡から出土した田原レイマン・キリシタン墓碑は、四條畷市立歴史民俗資料館に常設展示されている。 そしてこの墓碑は、平成19年1月19日、大阪府より有形文化財歴史資料として指定を受けた。
冒頭、千光寺跡の発掘の様子について紹介したが、元々、田原には田原城主一族の菩提寺、千光寺があったらしいと、地元では語り伝えられてきた。そして、千光寺谷と呼ばれる月泉寺の墓地周辺の発掘調査で、寺や池、墓、土塀などの跡が次々と見つかり、千光寺と刻印された瓦が見つかるなど、この伝承を証拠づける発見があったのである。  千光寺跡からは、平成6年には、中国渡来の最高級品の青磁袴腰香炉や青白磁小壺も見つかっている。
この青磁袴腰香炉は、発掘調査で出土したもので、その姿もほぼ完ぺきで、年代も同時に出土した土器からも確認が取れるなど、第一級品のもので、四條畷市立歴史民俗資料館の現館長、野島氏によれば、「なんでも鑑定団に鑑定依頼をすれば、数千万円の値が付く貴重なもの」と、いたるところで自慢げに話されているが、わたしも手に取ってみたことがあり、少々身震いをしたことを覚えている。
この田原氏墓地から出土した青磁袴腰香炉も、平成11年2月5日、大阪府から有形文化財考古資料の指定を受けている。
  田原台のほぼ中央にあたる消防田原分署の東側に千光寺跡地移築広場ができているが、ここには、発掘調査で出てきた土塀の跡や墓地の一部等が、出土したそのままの状態で移築され、常設展示をしている。
この頃、土塀などめったに見ることはできないが、わたしが子どもの頃には、田原のいたるところで土塀を見ることができた。ここに行くと、土塀を断面で切り取ったまま展示をしている。そして、田原レイマンのキリシタン墓碑は、この土塀の下から出土をしたもので、キリシタン弾圧を逃れようと、当時の村人たちがめったに人の目に触れないと思い、土塀の下に埋めたものと思われている。
四條畷市は、開発行為に対する文化財の発掘調査については、かなり厳格に実施してきたもので、この墓碑もその取り組みの成果の一つといえる。本来なら、後世、人目にさらすことはなかったものと思われるが、地道な発掘調査によって、今生きる我々が目にできたものと感謝しなければならない。(写真:土塀の基礎の跡と、総供養塔の基壇跡)
 

●田原から湊川の戦に参陣した武士がいたかもしれない

この田原対馬の守の菩提寺であった千光寺は、明治維新後、無檀家となって廃寺となっていた。
その後、寝屋川市寝屋の月泉寺が移り、禅宗尼寺へと転じた。現在、伽藍が整った月泉寺は、平成8年、再興落慶されたものである。
本尊は、千手十一面観世音菩薩であるが、この月泉寺には、田原対馬の守のお位牌がある。そして、このお位牌には、「義俊院殿節山良忠居士 没年延元乙子三月五日」とあり、南朝方の年号「延元」が使われている。
延元乙子と云えば、西暦1336年にあたると思われるが、まさに、楠木正成公が湊川の戦に赴く5月に先立つこと少し前に、田原対馬の守が南朝年号を刻んで亡くなっていることを考えるとき、この田原地区からも湊川に赴いた武士がいたのではないか、と想像を掻き立てるのは私一人だろうか。そういえば、逢阪に残る五輪塔にも、「大坂一結衆 延元元丙子年三月」と刻まれているが、田原のみならず、逢坂地区も含めた四條畷一帯が南朝に繋がっていたのではないか、と思うと、どこかに正行とつながる歴史的遺産が残っているのではないだろうかと、勝手な夢が膨らむ。

2016.8.23

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