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ホーム > みどりのさと > 第11話 ゴルフクラブ四条畷9番ホール付近にあった小松寺跡
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◆高校生時代、キャディのバイトに通ったゴルフ場 四條畷市史第一巻第Ⅱ部「各論」第三編「歴史」第三章「神社・仏閣と民間信仰」第二節「寺院」の小松寺の項を見ると、以下の記載がある。 ― 当地は、付近の谷間を小松ケ谷と呼称される如く、標高260メートル、人煙遠き山獄重畳する地域であった。四條畷カントリークラブ(現・ゴルフクラブ四条畷)が建設される昭和40年までは、当地域には民家の一軒も見いだされず、雑木繁茂する寂蓼の地であった。さればこそ、静寂、清澄の大気を利してゴルフ場が建設されたのであるが、その建設途上においてブルドーザーは古瓦、礎石の多数を発見、為に破壊寸前の調査依頼を受けたことがある。これの測量に従事したのが昭和40年1月31日のことであった。地歴クラブ員27名とともに調査にあたったが、出土品は丸瓦、軒瓦、平瓦など数十点、土器片五点、石うす、五輪塔などであった。場所は9番ホール、本部建物(現・クラブハウス)から北へ400メートルの場所である。 私は、中学生のころ、開業したばかりの四條畷カントリークラブでキャディのアルバイトをした、と記憶をしていたが、この記事によると、この記憶は間違いだったようである。 ◆手製のウッドで、ボールの飛ばしあい 昭和40年と云えば、この年の4月に高校に入学している。 土曜日や日曜日には、朝早くからゴルフ場に向かい、キャディの登録を済ませ、順番に、お客さんのスタートを待つ。そして、お客さんが決まると、そのバッグの重さで、確か8キログラム以下であれば2バッグ、8キログラムより重いと1バッグであったと思う。 もちろん、2バッグにあたると、「やったー」と思ったものである。バイト代が多かったことは勿論である。しかし、今と違い、この当時のキャディは、すべてバッグを肩に担いでコースを歩いたので、2バッグともなれば、相当の移動を強いられたことと思うが、つらかったとか、きつかったというような思い出は残っていない。 そして、今だから言えるのであるが、バイトを終えると、そのまま帰るのではなく、よくコース周辺の山に入り、ロストボール探しをしたものである。開業間なしであったこともあり、多くの(新米?)プレーヤーが右、左の山にOBボールを打ち込み、ある程度は探すのであるが、見つからないボールも多くあったのである。 バケツ一杯に山のように拾ったボールを持ち帰り、田んぼで飛ばしあいをしたものである。 ボールとティーはある。あとはゴルフクラブである。仲間で山に入り、雑木の中で、まっすぐ立っている木を見つけ、掘り起こすのである。立派な根っこのついている木を選び、その根っこを削り、フェイスを作ると、手製のウッドが完成する。 田んぼで、ティーの上にボールをのせ、この手製のウッドで飛ばしあいをする。これが当時の遊びのひとつであった。前置きが長くなってしまったようである。話を小松寺跡にもどそう ◆12世紀、寺僧120人を擁し、盛大を極めた小松寺  『続群書類従・河内国小松寺縁起』によると、「当所、荒山寺と称した。元明天皇の和銅5年(712)、田原郷の住人宇紀八の子若石丸(13歳)、宗次郎の子熊王丸(11歳)、中四郎の子松若丸(17歳)の三人がこの山に遊び、方五尺の草堂を作ったのが開山の始まりである。」とある。 また、「延長3年(925)、小松寺と称する。秦の姉子(40歳)なる人が、亡夫の小松景光供養のために、七間四面の堂一宇を建てた。そのために荒山寺改まって、以後、小松寺と称するに至る。」「保延5年(1139)の再建にあたっては、近郊農村たる田原・大坂(逢坂)・甲可(四條畷)・星田等荘官級有力農民が募金、寄進をしている。」と。 出土の瓦(かわら)は、平安から鎌倉期のものが主であるところから、小松寺は鎌倉期までは盛大を極めたものと思われる。戦国期には山城化した小松寺を小松城と呼んだそうである。この地に星田・水本・田原・四條畷・四条・住道の六ケ村組合立の北河内郡公立飯盛青年学校ができた。戦後旧田原中学校が、この校舎を借りて開校した。しかし、あまりの寒さに、その年度内に移転した。 “開山の 小松寺縁起に 田原郷”と詠んだ「郷土史かるた田原の里」の句の解説文にこのように記載がある。  しかし、四條畷市史は、田原住人の子らによる寺院草創云々は創作であり、小松寺の創建は、秦氏の姉子が再建したとある10世紀の初頭ごろではあるまいか、と記している。 承暦4年(1080)の広大な寺域、坊舎、寺僧120人の記事や、保延5年(1139)、久安元年(1145)の地域郷、邑よりの勧進奉加帳を証左に、市史は、この頃の小松寺は、地域住民の喜捨を受けて盛大を極める、と記している。しかし、続けて、真言宗密教として栄えたこの山岳寺院小松寺も、浄土宗を始めとする鎌倉仏教諸派の隆盛に押されて後退、人煙遠きが故に、地域住民からも見放されて荒廃の一途を辿る、と記す。(図「四條畷カントリークラブ・9番ホール付近」、写真「小松寺の発掘」はいずれも四條畷市史第一巻より転載) ◆南朝側郷士がつめた小松城、故に和田賢秀の墓建立か  この小松寺は、讃良郡と交野郡の境界線上の交野郡側、小松ケ谷の懸崖(断崖絶壁)の台地上に位置したことから、戦乱時にはこの地の豪族らの山城と化していった。 安見家家譜(枚方市・個人蔵)によると、正平5年(1350)、交野と南山城の諸郷士が、南朝、吉野朝廷に味方して、星田小松城等に立て籠もって、北朝、足利軍に備えたとの記事があり、この星田小松城は、この寺の地形を利用したのであろう、と交野町市は記している。 四條畷市域に残る史跡の中に、逢阪の五輪塔や月泉寺に残る田原対馬の守の位牌等、この地が南朝ゆかりの地であったのではないかと思わせるものがあるが、小松寺にも南朝ゆかりの史実が残っていた。 現在も、ゴルフクラブ四条畷の9番ホール(確か?)付近に舟形光背の一石に五輪塔を陽刻(うきぼり)した「和田賢秀の墓」が建っている。(写真:ゴルフクラブ四条畷敷地内に建つ和田賢秀一石五輪塔の墓碑) 両墓制の習慣が色濃く残る四條畷が故に、南野塚脇の「和田源秀戦死の墓」と、ここ小松寺跡付近にとは思っていたが、小松城が南朝側に立った郷士らがつめた場所となれば、この地に和田賢秀の五輪塔が建っていることに大いに合点がいく。 田原の地にも、このように楠正行ゆかりの南朝史蹟がある事を知り、「よしよし」、と思いつつ、筆を置く。 2017.01.26
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