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ホーム > みどりのさと > 第1話 ~桃源郷のさと、田原~
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江戸時代、九州筑前の国に儒学者、教育家として活躍した貝原益軒(寛永7年1630―正徳4年1714)がいた。
この貝原益軒は、神戸・湊川の楠木正成墓「嗚呼忠臣楠子之墓」建立に関わったひとりである。
徳川光圀は、大日本史編纂の一大事業を通して南朝正統を明確にし、その象徴ともいえる事績として、元禄5年(1692)にこの墓を建立したが、その28年も前の寛文4年(1664)、湊川の地を訪れた貝原益軒は、楠公墳墓の塚の荒廃を憂い、楠公碑建立を企てようとしている。しかし、一介の儒学者の身ではあまりにも恐れ多いことと、謙譲の心から取りやめているのである。
そして、貞享2年(1685)徳川光圀の命を受け貝原益軒のもとを訪ねた佐々宗淳(水戸黄門漫遊記、助さんのモデルと言われる)は、吉野朝を正統とする「日本史畧」を著わし、また正成・正行伝の載る「三忠傳」を朱舜水に示したことで有名な九州柳川の儒者、安東省菴、この三人で、楠木正成の誠忠と顕彰を話題に論じ合ったといわれている。江戸に戻った佐々宗淳は光圀に報告、建墓に繋がるのである。この貝原益軒は、四條畷の地と浅からぬ縁がある。貝原益軒は、元禄2年(1689)、京都と吉野往復の旅日記を「南遊紀行」と題して、正徳3年(1713)に版本で発刊している。元禄2年の2月10日、貝原益軒は京都の東洞院を発ち、洞ヶ峠から磐船街道を通り田原の地を経て清滝峠を越え、国中神社辺りで「飯を盛りたるが如し」と飯盛山のことを記し、川崎の茶屋前を通り、東高野街道を使い、和泉の国、紀伊の国(高野山)を経て大和の国(吉野山)で折り返し、復路は河内の国から再び四條畷の地(南野・砂・岡山)を通り、2月23日に京都の宿に戻る、という2週間の強行軍であった。この時、貝原益軒が磐船街道を使い、交野市・私市から田原の地に入った件は次のとおりである。

「岩舟より入て、おくの谷中七八町東に行ば、谷の内頗広し。其中に天川ながる。其里を田原と云。川の東を東田原と云、大和国也。川の西を下田原と云、河内国也。一澗の中にて両国にわかれ、川を境とし名を同くす。此谷水南より北にながれ、又西に転じて、岩舟に出、ひきき所に流れ、天川となる。凡田原と云所、此外に多し。宇治の南にも、奈良の東にもあり。皆山間の幽谷の中なる里なり。此田原も、其入口は岩舟のせばき山澗を過て、其おくは頗ひろき谷也。恰陶淵明が桃花源記にかけるがごとし。是より大和歌姫の方に近し」

私も、幾度となく私市から磐船街道を歩いて磐船神社に至り、田原の北の玄関口に当たる羽衣橋に至ったことがある。この地から南に広がる田原盆地を見たとき、いつも、この貝原益軒の“あたかも桃花源記にかけるがごとし”の一文を思い出した。左右に高い稜線を見ながら天野川沿いに走る磐船街道をひたすら登って歩き、疲れを感じながら辿り着いた地で、低い稜線が故に一気に視界が広がる気配をじかに感じると、頗る解放感を味わうことができる。そして、その眼前に下田原、片田(下田原は、小字として南から照涌、野田、滝寺、片田の4地区がある)地区の棚田が広がるのである。まさに、“桃源郷のさと、田原”と称賛した貝原益軒の、まるで別世界に入ったような、ほっとした一瞬を共有できるのは、私一人だけではないだろう。そして、地区の古老の話では、かつて片田の一角に桃山と呼ばれる地があり、里人は酒や肴を持って集まり、ひと時を過ごしたものだ、と云う。おそらく、桃山という地名からして、桃の木が植わっていたのであろう。貝原益軒がこの地を訪れたとき、視界に飛び込んできた光景を“桃源郷”と称したのみならず、旅した時期を考えると、桃の花の匂いも感じたのではないか、つまり“目”と“鼻”の両方で”桃源郷”を想像したのではないだろうか。いつの日か、片田の地に桃の木を植えることができれば、と願っている。このように、田原の地は緑豊かな自然が広がるのどかな地である。そして、縄文遺跡に始まり、日本最古のキリシタン墓碑、田原城址、弘法大師ゆかりの照涌井戸、多くの街道が交差する街道文化と道標等の歴史・文化が残る地でもある。

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