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ホーム > みどりのさと > 第13話 月泉寺墓地、田原対馬の守の五輪塔
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◆子どもの頃、印象に残る月泉寺の尼僧
子どもの頃のお寺さんのイメージと云えば、8月、盆のお参りの時に縁側から上がってきて、仏壇の前で読経を唱え、忙しそうに次の檀家(?)に向かうお坊さんの姿が思い出される。
確か私の家では、昔は、地元、下田原の真言宗・法元寺のお坊さん、そして北田原の浄土宗・生玉寺のお坊さんと上田原の月泉寺の尼さんの三人が来られた、と覚えている。
今でこそ、どこのお寺のご住職であるかは分かるが、子どものころには、どこにどのようなお寺があるのかも知らず、まして、どこのお坊さんなのか知る由もなかったが、小柄な尼僧さんは大変印象に残っている。子ども心に、お寺さんといえば”男の人”と思い込んでいたようで、一年に一回参ってくれる“女のお坊さん”は不思議な存在であったのだと思う。
四條畷市史によると、月泉寺の住職は、代々尼僧であったが、昭和49年就任の工藤清秀現住職に至って僧寺になった、とある。

◆今の五輪塔は、明治期に積み直したもの
四條畷郷土史かるた(郷土史かるた田原の里にも)に、「山中に 苔むす五輪塔 月泉寺墓地」の句がある。
今は、田原台4丁目の住宅街の隣地に整備された墓地となっているため、“山中に 苔むす”の句は違和感を覚えるが、パークヒルズ田原の開発が進むまでは、まさに山中の墓地で、人里離れ近寄りがたいイメージがあった。
四條畷市史によると、開発前の墓地の北側に、江戸期までは千光寺という真言宗寺院があり、この墓地は寺内墓地であったとある。続けて、しかし、明治に入り、この千光寺が廃寺となると、寝屋川市寝屋の曹洞宗月泉寺がこの地に移転してきて、千光寺領を継承して上田原の現在地に建立され、千光山月泉寺を号し、今日に至ったとある。
  今、月泉寺墓地には、田原対馬の守の五輪塔と通称される室町期のかなり大きな五輪塔が建っている。しかし、よくみると、五輪塔の「地」「水」「火」「風」「空」の五層の色合いや形が微妙に異なることが分かる。
これも、四條畷市史によると、この墓地には50基以上の五輪塔が立ち並んでいたようで、それらの五輪塔が、明治期には傾き、倒れ掛かったものが多く、これを整備し直したようで、田原対馬の守の五輪塔と通称されるものは、”格好良き各部を選び出し、積み直したもので、建立当時の姿そのものとは言い難い”と、断じている。
墓地の一角には、並立していた五輪塔の一部と思われる石が、フェンスに沿って並べられている。

 ◆初代田原城主=田原対馬の守の戒名に残る南朝年号
義俊院殿節山良忠居士 没年延元丙子三月五日
 楠木正成に従った河内武士の中に、四條畷地域の武士が存在したか否かは推測の域を脱しえないが、田原城主田原対馬の守の初代戒名が月泉寺に現存する。
月日は、楠木正成戦死の五月二十五日とは異なるので、湊川の合戦に参加し戦死したものではないようだが、延元元年の同年であること、戒名の「忠」「節」の文字が使われていること、南朝年号の「延元」を用いていること等から判じて、田原対馬の守は南朝・宮軍に列した勇士であったかもしれない。
田原荘が七条院領として成立し、のち後宇多院、後醍醐帝へと伝承された荘園であったことから判じて、田原対馬の守と云う当地豪族の宮軍=南朝参加は十分に肯定されるところではあるまいか。
なお、「四條畷市史第一巻」によると、南北朝期の田原対馬の守四代の戒名は以下の通りとなっている。
延元丙子(南朝年号一三三六)三月五日    義俊院殿節山良忠居士
延文四丙申(北朝年号一三五九)十二月十日  藤寿院殿雄山良意居士
永和二丙辰(北朝年号一三七六)七月二四日  究意院妙相日等大姉
至徳三丙寅(北朝年号一三八六)九月一四日  白雲院殿天山良真居士
これらの史料や田原の荘園の歴史的背景から考えて、少なくとも田原城主、田原対馬の守が治める田原、そして逢阪の地は、当初、南朝の影響下にあったのではないか。
逢阪には、高さ180センチで、その古さと美を誇る五輪塔が建っている。地輪部中央には「大坂一結衆 延元元丙子年三月 日造立之」の銘が刻まれている。延元元年三月と南朝年号を使い、三月は田原対馬の守の戒名と同じ時期の造立であることから、この五輪塔は田原対馬の守を供養するために逢阪の人々が建立したものではないか、との説がある。
しかし、同年五月の湊川の戦で楠木正成を失った南朝は、吉野に追いやられている。勢い、この地域も徐々に幕府方の影響を受けるようになったと思われる。
後年、北朝の年号を使っていることから、四條畷市史も、「北朝の時運下に地位を得て、八の坪と地名する田原城の城主として、当地に君臨した土豪と解される」と記している。
正成時代、田原の地が南朝ゆかりの地でありながら、湊川の戦以後、正行の時代に入り、北朝の影響を受ける地に代わっていった歴史が事実とすれば、どことなく寂しさを禁じ得ない。攻めて、四條畷の合戦のあった1340年代は、まだ南朝に与する地であったことを願うが・・・。
2017.02.02

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