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ホーム > みどりのさと > 第14話 パークヒルズ田原の開発に伴う発掘調査で田原に縄文文化出現!
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◆昭和53年、消防入団の年 ポンプ操法全国大会出場で100回以上訓練参加

 昭和50年代前半といえば、思い出されるのは消防団に入団したことである。
田原には、下田原、上田原にそれぞれ分団があり、定員はそれぞれ15名であった。昭和53年の初め、その下田原分団への入団のお誘いをいただいた。
忘れもしない、その年の3月に開かれた総会での出来事。
入団前には、「総会や研修旅行、地域の消火栓点検、そして消防団全体での訓練など、1年に数回程度の活動」と聞いていたので、あまり負担のないものと安心していた。もちろん、火災発生の時は、何をさておいても駆けつける役割を担う事は勿論覚悟の上であった。実際、民家火災が発生したことがあり、その時は、総務部長から「○○君。消防から出動の要請が来ているよ。すぐに帰ってくれ!」と連絡を受け、急ぎ駆けつけたことがある。もちろんのこと、大阪市内に勤務してたため、田原に戻るのに、いくら急いでも1時間はかかり、現場に駆け付けた時は、既に鎮火し、片づけも終わっていたのだが…。
ところが、入団した、最初の総会の終わりかけになって、一枚の紙が配られ、次のような説明があったのである。
「今年、下田原分団はポンプ操法大会の出場が決まっているので、訓練の予定表を渡しておく。四條畷市を代表して7月の北河内支部大会に出場するが、そこで優勝すると、9月の大阪府大会。また、大阪府大会で優勝すると、今年は秋に東京で全国大会が開催される年(全国大会は、当時、2年に一回開催)なので、この訓練はほぼ一年続くことになる。概ね、夜間、週に3日を予定しているので、何とかやりくりして参加するようにしてほしい。」と。
ビックリ仰天。1年に数回と聞いていたのに、1週間に3回・・・。
 結局、この年、下田原分団は四條畷市の分団としては初めて、北河内支部大会、大阪府大会で優勝した。結果として、全国大会に駒を進めることとなり、延べ100回は訓練に参加することとなった。おまけに、全国大会は強豪ぞろいであったが、大阪府で初めて優良賞の入賞という栄に浴し、地元小学校運動会での披露や翌年の消防出初式での披露と、そのための訓練がほぼ1年にわたって続いたのである。
お陰様を以て、入団2年目以降の活動は、入団の年に比べると何十分の一かの負担ということになり、極めてスムース・順調に進むこととなったが・・・。

◆昭和54年、下田原の田原遺跡から縄文土器発掘

前置きが長くなってしまったが、私が消防団に入団した翌年、昭和54年に、下田原で大きな発見があった。
時、おりしも、パークヒルズ田原のニュータウン開発が進むこととなり、田原地区で発掘調査が行われたのである。
田原地区の文献登場は、平安時代末期の小松寺縁起帳で、それ以前のものはなかった。
しかし、公団進出予定の地域、現在の、国道163号下田原西交差点(コスモのガソリンスタンドのある場所)から南にかけて、田原中央線沿いに走る戎川を中心とする一帯(田原台1丁目辺り)での発掘調査によって、縄文時代早期に属する米粒文・山型文を描いた土器の破片、更にはウサギ、シカ、イノシシなどを射止める石鏃や皮剥ぎ石器が出土したのである。
地下150センチメートルのところから縄文土器・石器が、そしてその上層部から弥生式土器が出土した。
 出土したのは、旧石器時代のサヌカイト製の細石器(小動物の皮を剥いだり、肉を切ったりするもの)や縄文時代早期の押し型文(木の枝に米粒のような小さなくぼみを作って土器面に押した文様)、山型文などの土器類である。また、弥生式土器は、高さ25センチメートル、胴部に六条、頭部に三条の突帯文様を印した壺で、田原の住民は、稲作を行い、自ら種まき収穫した籾を、あるいはほかの穀物などを、これらの壺に蓄え、安定した生活に入ったものと思われる。
今より、約9000年も前の頃、田原に人が住んでいたことを示す貴重な発見であった。
なお、四條畷では、岡山の北、寝屋川市との境界線上の讃良川床遺跡があり、旧石器時代から縄文時代中期、晩期の遺物散布地で、ここから出土したチョッピングトールと呼ばれる礫(つぶて)器2点は、2万年程前のもので、大阪でも一番古い時代の石器と考えられている。

◆田原の遺跡

縄文期に田原に人が住んでいたことを示す発見となった田原遺跡(図 30)、別名滝寺遺跡について触れたが、これ以外の田原の遺跡についても紹介しておこう。
第六話で触れた千光寺跡(図28)、寺口遺跡は、鎌倉時代から安土桃山時代の遺跡である。
田原城主田原対馬の守の菩提寺であった千光寺跡からは、寺跡や土塀、墓地などが発見され、墓地からは中国竜泉釜で焼かれた最高級品の青磁袴腰香炉(高さ11センチメートル)や同じく中国製の菁白磁小壺(高さ4.6センチメートル)が見つかった。更に、「千光寺」と刻印された瓦3枚、土塀の基礎石列の傍から「天正九年辛巳 礼幡 八月七日」と刻された日本最古のキリシタン墓碑が見つかった。
第11話で触れた廃小松寺遺跡(図40)は、現在の四條畷ゴルフクラブ敷地内に位置し、柱跡石、軒丸瓦、平瓦など多数出土した。後に四條畷の合戦で戦死した和田賢秀の菩提墓も発見された。寺院は戦国期には荒廃し、清滝城と呼ばれて土豪の拠るところとなった。
八の坪遺跡(図42)は、鎌倉時代から室町時代の集落跡である。この遺跡からは居住空間と耕作地と思われる遺構を検出しており、田原城の堀の内(土居の内)に位置することから、家臣団の居住地や城の施設であった可能性が指摘されている。第3話で触れた田原城址(図32)と重なり、八の坪遺跡の方が広範囲にわたる。
的場遺跡(図43)は、旧田原小学校の跡地からJA東部農協田原支店一帯に広がる集落跡で、鎌倉時代から室町時代のもの。
森山遺跡(図47)は、上田原の西尾コスモ・ガソリンスタンドを中心に東西に広がる縄文時代、古墳時代、鎌倉時代から室町時代の集落跡。

(写真) 上:「下田原区規約集」掲載写真より転載 下:四條畷市史第4巻「史跡総覧」掲載の写真を転載

(図) 扇谷昭編「四條畷の史跡事典・四條畷市史跡等位置図」より転載

 

2017.03.13

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