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第15回350年に及ぶ田原の伝統行事、傍示挿し

◆田原に残る伝統行事 砂絵、とんど、お月見泥棒そして傍示挿し
私の住まいする下田原地区には他の地域にはあまり見られない伝統行事が、今も残っている。
大晦日の日、すべての仕事を終えた後、庭を掃き清めて、きれいな更土で庭に太陽や月、米俵、干支、船などの目出度絵(めでたえ)を描く“砂絵“については、第4回の下田原天満宮の件で紹介をした。
また小字単位に小正月に、天野川の河原などで行われてきた“とんど”は、正月の松飾を各戸から集めて、竹を柱としてその周りに藁や松飾を積み上げ、1月15日に焼いてきたもので、他所では「さいとう」「左義長(さぎちょう)」等とも呼ばれている行事。
とんどは長年すたれていたが、平成4年(1992)、学校5日制の導入に伴って地域教育推進を目的に私が青少年指導員として関わり、立ち上げた田原地区教育推進協議会の呼びかけで、田原地区内4つの子供会が中心となって、平成6年(1994)1月、田原小学校の校庭を会場に、「大とんど」と銘打って復活させた。
また、中秋の名月の夜に行われてきた“お月見泥棒”も、今も続く田原地区の伝統行事である。これら「とんど」や「お月見泥棒」については別の機会に譲るとして、今回は、今一つ残る地域の伝統行事“傍示挿し”について取り上げる。

◆毎年、1月11日に実施
この傍示挿しという行事は、田原地区に350年に及ぶ長きにわたって続いてきた伝統行事で、上田原地区・下田原地区それぞれの境界線上の傍示坪に打ち込まれている境界杭(村境標識)を打ち込むことを言う。
かつては、上田原地区より4垣内各一人宛と、消防分団長そして区長の6人が、また下田原地区よりは照涌2名とその他の3垣内各一人宛と消防分団長、区長の7名、総勢13名で、毎年1月11日、田原支所前に集合して、上田原・下田原一緒に出発し、両地区境界線上の尾根にそれぞれ10本、そして旧四條畷市(田原村と合併前)と交野市との村界標識場所約40カ所の「傍示坪」に竹の杭を打ち込んで回った。
“かつては”と書いたのは、上田原区・下田原区の申し合わせで、今は、合同の傍示挿しは途絶えているからである。
時代の変遷とともに、地区住民の生活様式が変わり、台所やお風呂で使う蒔きや雑木を求めて山に入る事がほとんどなくなり、山の様子が大きく変わったことに加え、田原地区にも開発の波が押し寄せ、ゴルフ場ができたり、開発途上のまま放置された原野が出現するなど、境界線上の様相が大きく変わり、傍示挿しの伝統行事を維持することが困難になっていた。
そこに加えて、田原地区も高齢化が進み、各垣内(上田原:左水・森山・中番・八の坪 下田原:照涌・野田・滝寺・片田)宛ての人数確保が難しくなってきたこともあって、合同での実施は中止となったのである。
 しかし、下田原地区では、消防分団が中心となって、訓練の一環として、また受け持ち管内の熟知の観点から、区民に自由参加を呼び掛けて継続実施している。

◆旧田原村 昭和36年の合併時202世帯、1081人 平成29年3月31日現在、467世帯、1094人
四條畷市の総面積は18.7平方キロメートルある。東部の8平方キロメートルが旧田原村で、合併前の面積に大差はない。旧田原村8平方キロメートルの内訳は、水田1.25平方キロメートル、畑0.26平方キロメートル、山林4.85平方キロメートル、住宅その他1.38平方キロメートルで、面積の約60%が山林に恵まれた地域であった。
しかし、田畑や山林の一部を切り開いてパークヒルズ田原が開発されたので、今は、この山林の比率は少しは減っている。
また上下田原村の面積はほぼ同一で、旧石高は上田原村273石、下田原村316石であったと記されている。昭和36年合併当時の田原村人口は1081人、202世帯であった。因みに、平成27年3月31日現在の田原地区の世帯数・人口を調べてみると、以下の通りとなる。
*田原地区合計 3342世帯 9096人
*上田原地区  274世帯 556人
*下田原地区  193世帯 538人
旧田原村、すなわち上田原と下田原の推移を見てみると、病院や特別養護老人ホームなどの入所者や下田原育英地区の住宅開発等で、世帯数が2.3倍にも増加した割に、人口が全く横這いであることからわかることは、1世帯当たりの構成員数が極端に減ったことである。
少子高齢化の時代の波を如実に表しているのではないか。
なお、伝統行事としては、上記以外にも、日待ち講(旧暦の1月14日の夜に垣内ごとに集まり、翌15日の日の出を待ち新年を祝う講)、伊勢講(かつては代表がお伊勢さんに詣り、その土産話を聞くものであったが、現在続いているのは、代参を省略し、株単位で食事を共にして情報交換する場となっている)、愛宕講(輪番制で、京都の愛宕さんに代参し、火の用心の札と樒の枝を買って帰り、各戸に配るもの)、ヨウカビ(田植え前の農作業の一斉休業日のことで、5月8日であったことから”ヨウカビ”と称されるようになった。昔は素人演芸会等が催され、子どもの頃は楽しみにしていた行事であった。しかし、今は、戦没者慰霊祭にその名残を残してきたが、その戦没者慰霊祭も昨年を最後に中止と決まったようである)、愛染祭(上田原の中番地区で今も続く)、照涌き大井戸水供養(毎年、8月25日、法元寺の住職を招き水供養をしたのち、地域にまつわる講話を聴く)などがある。

◆傍示坪に打ち込む杭は、竹製 これが先人の知恵
傍示坪に、竹の境界グイを打ち込むのであるが、この竹を使っていることが真に先人の知恵と、感心する。
境界が動いては、この境界グイを打ち込む意味はなくなる。
石杭や鉄杭などを打ち込めば普通と考えていたのだが、決してそうではないのである。石の杭や鉄の杭では、簡単に動かされてしまうのである。
しかし、竹杭はそうはいかない。
ミソは、毎年打ち込むことである。だから、境界線上の傍示坪には、この数年、毎年打ち込まれた竹の杭が、その変遷とともに、違った様相で残っているので、境界を動かし移し替えることができないのである。これは、実際、傍示坪を見ると一目瞭然なのだが、今年打ち込む杭はまさに青竹、また数年前に打ち込んだ竹杭は茶褐色に変色していてもしっかりと残っている。そして5~6年前の竹杭は、通例なら一部が枯れ、一部はなくなっているのである。そして10年も前に打ち込まれた竹の杭は、傍示坪の地面にその一部を残すのみとなっている。これら、年々朽ちてきた竹杭を、そのまま原形を維持して混在の状態を壊さず、移すことは至難の業である。
何とも素晴らしいアイデアと感心したものである。

◆傍示坪を探しながら、行きつ戻りつ歩いた記憶が
私は、この行事に2度参加をしたことがある。そのうちの1回の経験談を紹介する。
その日は、区長宅に集合して、田原支所前で上田原のメンバーと合流し、両地区の境界線上を、竹杭を持って歩き、田原中学校の上にある最初の傍示坪に竹の杭を打ち込んだ。
その後、堂尾池に繋がる戎川の南側の尾根をのぼりながら歩き、室池の手前で上田原のメンバーと別れ、旧四條畷町との境界線上を、上田原は南に向かって進み、下田原は北に向かって進むことになる。
室池周辺から北に向かうと、逢阪の竜王池の手前に辿りつくが、人の手が入り、急崖絶壁となっていて境界線上を進むことはできなくなった。ここからは、阪奈道路と逢阪地区を結ぶ道路を歩き、逢阪の地区内を抜けて四條畷ゴルフクラブ内に入り、何番ホールか忘れたが、フェアウエイを横切ってクラブハウスに辿りついた。
この時は、クラブハウスの裏手にある従業員食堂の一角をお借りして、持参の弁当を食べた。
この食堂の北側の尾根を上がると、ほぼ登りきったところに傍示坪があったと記憶している。この辺りからは、交野市との境界線上を東に向けて進むことになるが、はっきりとした尾根を歩くわけでもなく、人が入らなくなった山の道なき道を歩くので、行きつ戻りつ、迷いながら、傍示坪を探しながら遅々として進んだと覚えている。
飯盛霊園が右手の眼下に見える位置に来ると、再び北に向かい、そこから一挙に羽衣橋を目指して降りるのだが、この辺りも道なき道の尾根筋と思われる境界線上を、また、行きつ戻りつ、歩いた。
そして、羽衣橋を見渡すことのできる場所に最後の傍示坪があった。
もし、傍示坪が見たいということで行かれるようであれば、この羽衣橋の交野市との境界線上の尾根伝いにある傍示坪(道路から約20メートルぐらい上がったところ)と、田原中学校の西南、田原台5丁目の北西の位置にある山手の広場の鉄塔の西側上がったところにある傍示坪が、比較的簡単に行ける場所なのでお勧めする。
この時は、私も若かったので、竹杭を持ち、ハンマーを持って、リュックサックに弁当と水筒を入れて歩くことができたが、この年になると、もう境界線上を踏破することは困難ではないかと思っている
時代の流れとともに、このように伝統行事がすたれていくことは残念だが、これも致し方ないのかもしれない。
(写真:いずれも羽衣橋から西に上がった尾根伝いにある傍示坪の様子)

2017.04.11

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