阪奈エンタープライズ株式会社
ホーム
企業情報
会社概要
採用情報
お問い合わせ
緑のさと
ゴルフ場管理部
工事部
ガーデン・ナビ事業部
機械部
公共施設管理部
ホーム > みどりのさと > 第2話 ~今も沸き続ける照涌の大井戸~
記事一覧ページへ

照涌地区の最も低いところにある照涌大井戸の全景

私の住まいは、下田原地区では最も高いところに位置するため、村中の幹線道路から家に登る急な坂道は、今でこそ舗装されたため路面は平らで登りやすくなったが、昔は地道でいたるところに凹凸があり(雨が降るとあちこちに凸凹をつくった)、自転車を押して上がってくるのも大変だった。今も、近所の人が訪ねてくると、異口同音に「この上り坂はきつい。」と、何度か休憩しながら上がってくる。
しかし、私が高校に通っていたころは、この坂道を切り替えなしの自転車で一気に登り切ったものである。今思えば、考えられないことだが、それほどに若い頃には体力があったのだろう。
我が家は、それほどに高いところに位置したため、水には大変苦労をした。
昔、水道のなかった頃、この地域のほとんどの家には井戸が掘られていた。田原の水は美味しい、だから獲れるお米もおいしいといわれるが、水脈が豊富にあったのである。
しかし、我が家にはその井戸がなかったのである。おそらく先人は試掘をしたのだろうが、井戸水は確保できなかったようである。では、飲料水はどのようにして確保していたのか。山水を引いてきて使っていたのである。
家の敷地より数メートル高い位置に、コンクリート製の水タンクを据え、そこに農業用水路から水を引いて、ろ過して使っていたのである。

照涌大井戸に掲げられた保存会の由来書

だから、日照り続きで水量がなかったり、逆に大水で水が濁ったり、全く使えない日も多かった。もちろん、タンクの水が使えたときでも、台所の洗い物や洗濯、ふろ水としては使えても飲料水として飲むにはろ過が不十分のこともあった。
だから、日常の飲料水、そしてタンクの水が使えないときの生活用の水は、わが家から約二十メートルほど下にある照涌大井戸の水を汲みに行くのである。
親戚の者がやって来たり、お客さんが来られたら、「水を汲んできてくれ。」と言われ、ヤカンを持って走って行ったものである。ジュース・コーヒーなどとしゃれたもののない時代、酌んできた水で砂糖水(時には濃縮ジュースもあったが、皆さん分かります…?)にして出すのが、我が家のおもてなしであった。
また、この水は、夏でも冷たかったので、バケツに水を汲んできて、スイカやトマトなども冷やすために使ったが、何かと重宝したことを覚えている。
飲料水はまだしも、日照り続きや大水の際に一番困ったのが、お風呂の水である。当時は五右衛門風呂で、釜に下司板(げすいた)を敷いて入ったが(皆さん、分かります…?)、この風呂釜をいっぱいにする水の量を汲んでくるのが大変だった。前後に二つの長桶をオオコ(天秤棒のようなもの)で担いで、4回ほど往復しなければならなかったのである。
お蔭様で、今も足腰が強いのは、この風呂の水汲みと登り坂の所以と、感謝している。
この苦労から解放されたのが何時だったかはっきり覚えていないが、昭和30年代後半であったと思う。当時、田原地区に簡易水道が敷設され、蛇口をひねると水が出たときの喜びは、我が家にとって、否私にとって、他家には比較にならないものだった。

さて、前置きが大変長くなってしまった。下田原の小字、照涌地区にあるこの井戸は、どんなに日照りが続いても水が涌きだしたという共同の大井戸である。縦・横、185センチ・130センチの角型井戸を自然石で枠組みし、底には玉石を並べて砂を置き、水深は90センチある。弘法大師ゆかりの井戸として、照れば照るほどに水が湧き出る、また、照っても照っても水が枯れることなく湧き出ることから字名も照涌と名づけられ、今も地域の人の感謝の念をあらわす大師像と2基の地蔵さんが祀られている。毎年8月25日には井戸に感謝を捧げ水供養が行われている。なお、照涌大井戸は共同井戸の痕跡をとどめる市内唯一の井戸である。今に語り継がれる民話を紹介しておこう。

 昔、昔のことです。ある暑い日に、身なりの汚い坊さんが田原の里を通りかかりました。
 村の若い娘が声をかけました。「お坊さん、どうされました。ずいぶんお疲れのようですね。」「歩き通しで、とてものどが渇いているのです。」「それは、お困りでしょう。」 娘は村の井戸から水を汲んで差し上げました。
 「お坊さん、どうぞ。これで、のどを潤してください。」
 お坊さんはとても感謝しました。「ああ美味しい。これで元気になりました。ありがとうございます。」 お坊さんは礼を述べて立ち去りました。そして数日がたちました。
 「あの坊さんは、実は、弘法大師という偉いお坊さんだったらしいヨ。」 「えっ、そうだったの。」 皆びっくりしました。
 それだけではありませんでした。不思議なことにどんなに水不足の時でもこの井戸だけは枯れることなく、おいしい水がコンコンと涌き続けました。
 「これは弘法大師様のおかげだ。皆でこの井戸を大切にしておまつりをしよう。」 村人は今までどおり誰にでも親切にし、井戸も大切に使いましたトサ。

この民話は、四條畷市に語り継がれている4つある民話の一つとして、四條畷市や教育委員会等から発行される様々な冊子・リーフレット等で紹介されている。
私が紹介した民話の中では、村の娘が弘法大師に勧めたのは「お水」としているが、中には「お茶」を勧めたとしているものもある。
しかし、弘法大師が活躍した平安時代前期は、お茶は非常に貴重で僧侶や公家などの限られた人だけが口にすることができたといわれている。
時代が下って、江戸時代に入るとお茶は武士の儀礼として取り入れられるようになり、その影響を受け、一般庶民にも飲料としてお茶が広まったと考えられている。
時代考証の点から、私は、田原の里で、村の娘が弘法大師に差し上げたのは「お茶」ではなく、「お水」であったと理解している。
皆さんは、いかが思われるでしょうか。(田原氏)

ページ最上部へ

ホーム企業情報会社概要採用情報お問い合わせ緑のさと
ゴルフ場管理事業部土木工事部ガーデン・ナビ事業部機械部公共施設管理部
芝管理の匠ガーデン・ナビサイトマップリンク

阪奈エンタープライズ株式会社