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第18回 田原に息づく、江戸期の街道文化
田原に息づく、江戸期の街道文化
田原を通る3本の街道 磐船、清滝、古堤

◆磐船街道を通った貝原益軒、田原は“桃源郷の如し”と称賛
田原の街道文化といえば、真っ先に思い起こされるのが江戸期に記された貝原益軒の南遊紀行である。
貝原益軒は、元禄2年1689、京の都を発って、吉野折り返しの2週間の旅の様子を南遊紀行として残しているが、その中で、往路、天野川沿い私市から田原に旅して、羽衣橋から田原の里に出た時、「恰も陶淵明が桃花源記にかけるが如し」と田原の里を“桃源郷の如し”と称賛している。
貝原益軒が残したこの南遊紀行が故、私たちの棲む田原の里の、いわば代名詞として”桃源郷”という言葉が使われるようになった。(写真:磐船神社の由緒書き)
今、我々は、何事もなく、この磐船街道に沿って走る国道を行き来しているが、江戸時代の磐船街道は道なき道を進まなければならなかったようである。
街道とは名ばかりの三級国道で、天野川の河川の中の砂地を、それも足元のしっかりした場所を選びながら歩く部分もあったようである。また、街道の段差が故に、馬に乗ったまま前進できないところもあり、果たして街道といえたのかとの疑問もわくが、まさに人が歩けば道になるわけで、街道といえども、かつて亰の都から南、特に高野山や吉野に向かう道は八幡から飯盛山、生駒山、二上山、金剛山等のの西側山ろくを走る東高野街道を使ったと思われることから、磐船街道を使う人は少なかったのではないか。
貝原益軒は、途中、交野の獅子窟寺に立ち寄っていることから、東高野街道を使わずに、磐船街道を天野川沿いに登ってきたものと思われる。だから、復路は、東高野街道をそのまま北に進み、四條畷市の砂から交野市域に向かっており、磐船街道は使っていない。
なお、この磐船街道は、文政9年1826の道標の建つ枚方市「宗佐の辻」を起点に、新天野川橋で東高野街道と交差をし、交野市砂子坂から私市の旧道に入り、天野川沿いに磐船峡をのぼり、磐船神社を抜けて田原盆地に入るもので、生駒市北田原町の穴虫川の橋の麓に清滝街道との合流地点を示す道標があり、この地が終点となる。
だから、田原と大いに関わりのある磐船街道ではあるが、残念なことに、この街道は四條畷市域(下田原地内)を通っていないのである。

◆清滝街道は、田原の地では一本ではなかった
貝原益軒は、磐船街道から田原の里に入った後、今度は、清滝街道を使って東から西に向かい、逢阪越えをしている。
おそらく、貝原益軒が通った道は、穴虫川沿いの道標前から、大和の国と河内の国の国境にある天野川の高橋道標を抜け、法元寺の耳成地蔵を案内する前川橋道標、石塔型道標として全国的にも珍しい西川橋道標、そして滝寺地区を抜けて逢阪に向かったものと思われる。
このコースが、いわばオーソドックスな清滝街道と思われるが、私が、長年不思議に思ってきたことがある。(写真:照涌大井戸。手前の道が清滝街道であったと思われる。)
それは、私の住まいのあるほぼ真下の道路わき(照涌字地)に、正面に「清滝街道 距 楠公墓地□河内街道分岐二里」と記された先頭形角柱の道標が、長年、無造作に横たわっていたことである。
おそらく道路改修のため動かされたものか、角柱は中央で裂かれるように二つに折れていたが、今は、修復され、元あった位置から、少し北に寄った所に建っている。
おそらく、清滝街道の本道は貝原益軒が通った道だろうが、逢阪峠を下って田原の里に入ったところから大和に向かうには、この本道よりも、少し南側を斜めに南に向かう字地、照涌を抜けるこの街道の方が、少しでも早く大和に向かえるとあって、利便性があったのではないかと思われる。また、この街道は弘法大師ゆかりの井戸として、四條畷で唯一の共同井戸といわれる照涌大井戸の傍を走っており、古よりあった道と思われ、弘法大師も通ったのであろう。
しかし、このようなことを云えるのも、私の家の下に道標が残っていたからであり、この道標がなければ、本道と思われる街道しか分からなかったかもしれない。
そして、おもしろいことに、本道沿いにある道標は、高橋道標、前川橋道標、西川橋道標のいずれも、清滝街道の銘はないのに、字地照涌に建つ私の家の下にある照涌道標には、清滝街道との銘が彫り込まれているのである。
この照涌道標には、裏に「明治36年1月建之 大阪府」と刻まれていることから、明治期にはしっかりと清滝街道としての認識があったものと思われる。右面には、「距 四條畷停車場 壹里三拾五丁五拾四分」、左面には、「距 大和國界 貮丁八間」と、しっかりとその距離が刻まれている。清滝街道を往来する人々にとって、この道標は親切で、丁寧な道標であったのではないか。
なお、この清滝街道は、守口街道の延長線上にあり、四條畷市域では蔀屋本町を起点に、清滝川沿いに東に進み、逢阪峠を越えて、下田原、穴虫川に至り、その後、天野川沿いに南に進んだ後、竜田大橋に至るものである。

◆阪奈道路にとってかわられた古堤街道
 最後に、田原地区の最も南の端を東西に走る古堤街道だが、この街道は、田原を代表する史跡、田原城址、そして住吉神社の傍を走っていることで、多くの人に知られている。
特に、田原城址の北側の街道はほぼ一直線に東西に走っているが、私が子どもの頃には、確か左右に桜の木が植わっており、春には桜名所となっていた。しかし、下田原で育った私にとって、子どもの頃、上田原は遠い地であったのか、あまり確かな記憶がないのである。
そして、磐船街道も人気の少ない淋しい道であったが、この古堤街道は、上田原から竜間に抜ける道としてなんども通ったが、細くて、くねくね曲がっていて、人気もほとんどなく、木立が道路に覆いかぶさり、極めてさびしい・暗い道であった。この道の面影は、今は見る影もなく、田原台7丁目から8丁目、そしてさつきが丘と、新しい住宅地が開発され、山が削られ、谷が埋められ、なだらかな丘陵地となり地域全体の町並みが明るくなり、子どもの声が聞こえ、人気も多くなっている。
今、この地に住まいする人々からすれば、人気がなくさびしい道であったといっても、なかなか理解できないだろう。
京阪天満橋のキャッスルホテルの北側、八軒家浜の船着き場の南側に、「小楠公義戦之跡碑」が建っている。溺れる敵兵を救ったという、小楠公の渡辺橋の美談で有名な地だが、この碑文にも、同様のことが刻まれている。
即ち、正行が生きた正平の頃の渡辺橋は、大川にかかる唯一の橋のある場所で、周辺には民家もほとんどなかったと思われるが、かつての渡辺橋のあった位置と思われる天満橋周辺の今はビル群で乱立し、おまけに橋も何本もかかっている。
碑文は、歴史の経過、時の経過とともに、目に見える風景は大きく変わるものである、と記している。今、ここに立っても、誰が、小楠公の生きた時代の渡辺橋の美談を想像することができるだろうか、との思いで書かれたのであろう。
また、私は、この古堤街道の確認のために、竜間の集落地から山中を車で抜けて阪奈道路の信貴生駒スカイライン辺りまで行ったことがあるが、今は、まったく人気のないけもの道になってしまっていて、この道は果たして通り抜けることができるのだろうかと不安に陥ったことがある。そして、やっとのことで抜けることができたかと思うと、その出口にあたる場所には、道路の左右に鉄柱が建てられていて、サイドミラーをこすりながら、ようやくの思いで広い道路に出たことを覚えている。
阪奈道路という幹線道路ができて、かつての街道はその存在意義を失ったのであろう。自動車という文明の利器が、街道文化を消し去り、より機能的で、快適な交通手段を追求してきた結果ともいえるだろう。
もはや、貝原益軒のように、かつての街道を歩いてみようと思っても、歩くことのできない街道になってしまったところも多いのではないか。そう思うと、どことなく寂しさが増す。
この古堤街道は、「ふるつつみかいどう」「こてかいどう」「こていかいどう」とも云われる。大阪の京橋を起点に、東に進み、大東市の中垣内で南北二本の道に分かれている。この北側の道が田原の地を通っている。そして、南北二本の道とも、生駒市域で清滝街道と合流している。(写真:上 桜並木の面影が全くない現在の古堤街道 下 住吉神社前に建つ古堤街道の説明版)

2017.7.12 田原氏

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