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ホーム > みどりのさと > 第20回 田原に残る6基の道標
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思い出深い、元の位置に納まった上清滝の道標 

第18回で田原に残る街道文化について触れたが、四條畷市内には、南北東西、5本の街道が残っている。南北に走る、西から河内街道、東高野街道、磐船街道、そして東西に走る、北から清滝街道と古堤街道である。 いわば、四條畷市は、古くは奈良時代から江戸期にかけて、これらの街道によって多くの地から貴族や僧、武士、商売人、民が往来し、街道文化が花開いた町であったといえる。そして、その名残は、今も多くの道標によって垣間見ることができる。 四條畷市最古の道標といえば、蔀屋本町に残る清滝街道の道標である。町石を除くと河内で2番目に古い道標で、守口街道の延長線上に続く清滝街道は、この道標を起点に清滝川に沿って東に進み、田原の地を経て竜田大橋で奈良街道に接続している。 高さ71センチ、横60センチ、幅25センチの自然石の道標で、道標の下部の文字は大変読み取りにくいが、これは、道路の改修の度に路面が上塗りされたため高さをまし道標の下部が少しづつ路中に埋まったためと思われる。しかし、正面に「これより東清滝/やハたみちすじ」、裏に「延宝乙卯(1675)年7月5日」と刻まれており、河内と大和を結ぶ行基道にふさわしい趣と貫禄を具現した道標といえる。 この蔀屋本町の自然石道標をはじめとして、四條畷市内には、21の道標が残る。 これらの道標の中でも思い出深い道標は、かつて、清滝街道の逢坂越えと清滝越えの分岐点(上清滝墓地入り口付近)にあったと思われる清滝街道(清滝)の道標である。 自然石の道標で、高さ82センチ、横59センチ、幅21センチで、正面に「右/いが/いせ/なら/郡山/きづ/道/左あう坂道」と刻まれている。当時、右に進むのが本線で、ほぼ直線で、急峻な道路であったと思われるが、辿りつく先は現在の逢阪の五輪塔のある位置に通じていたものと思われる。一方、左に進むのは急峻を避け、逢阪の村落の中を通る遠回りではあるが緩やかな道であったと思われる。 この道標は、国道163号の第1トンネル工事の折、大阪側入り口付近に移築されていた。そして、第2トンネル工事の着工当時、私は四條畷市行政に関わっていたので、「二本のトンネルの入り口、それも上りと下りの道路に挟まれた位置になるのであれば、誰も近づくことができなくなる。四條畷の貴重な歴史的遺産の一つといえる道標だから、元あった位置の近く、誰もが見ることのできる場所に戻してほしい」と強く要望をした。国道事務所と四條畷市の尽力で、今は、上清滝墓地の入り口近くに移築され、誰もが近づいてみることができるようになったが、うれしい限りである。

◆高橋道標の不可思議、「東」実は「西」?!

さて、前置きの話が長くなってしまったが、田原に残る道標について触れたい。 田原に残る道標としては、下田原に4本、上田原に2本ある。 まず下田原だが、清滝街道沿いに、西から、西川橋道標、前川橋道標、照涌道標、高橋道標とある。 西川橋道標は、墓石型の角柱で、高さ122センチ、横・巾とも30.5cmで、石塔型道標として全国的にも珍しい。正面に「(紋)西川大吉/(台石に)油若中」、裏に「弘化二歳乙巳(1845)七月上院」と刻まれている。 西川家の東に立っているが、幕末の西川家は豆腐屋兼油屋兼旅人宿で、当主は琵琶・三味線を弾いて音曲語りする浄瑠璃をたしなむ風流人で、村の若いものを集めて音曲語りを教授していたとの記録が残る。油揚げ屋に集まり、翁より多くを学んだ若中は、大吉翁を偲び、墓石や神社奉納物には名字名前が記載されたことから、石塔型道しるべにして名字を入れることができたもので、弟子たちの師匠を思う眼力・智慧をうかがわせる道標である。 西川橋から約300メートルほどの前川橋に立つ道標は、最も新しく、昭和11年(1936)に建てられたもので、この道標は道案内ではなく、法元寺境内に祀られている耳なし地蔵尊を案内する道しるべである。高さ177センチ、横32センチ、幅18センチの角柱で、昭和初期、耳なし地蔵尊を祀る法元寺への参拝客がいかに多かったかを物語る道標といえる。法元寺に祀られている耳なし地蔵は耳の病気にご利益があるといわれ、お参りする信者は今も絶えない。耳の病気の完治をお願いしてお参りし、穴の開いた白い小石をいただき、この石を耳にあててお祈りする。やがて病が治った時、同じように穴の開いた小石を供えて感謝のお参りをする習わしが、今も続いている。 前川橋道標から東に500メートルほど行くと、奈良県(大和の国)と大阪府(河内の国)の府県境に高橋道標が建つ。 この道標は、高さ193センチ、横31センチ、幅30.5センチの角柱で、正面に「従是東大阪府」、右に「大正八年三月建設/川中央國界(1919)」、左に「従是南奈良縣」、裏に「距奈良縣廳 四里二 /距生駒郡郡山町柳三丁元」と刻まれているが、ここに不可思議がある。 それは、正面に刻まれる「従是東大阪府」の表現であるが、これは明らかに「西」の間違いである。「右左」ならともかく、東西南北の方角は道標の建つ位置、向きによっても変わることのない方位であり、なぜこのような間違いが起こったのか、ズーと疑問に思っている。(写真上から 西川橋道標、前川橋道標、高橋道標) もう一本の道標、照涌道標は、清滝街道から下田原地内を斜め南方、照涌大井戸を経由して天野川沿いに出る位置に立っている。高さ145.5センチ、横・巾とも17センチの尖頭形角柱で、正面に「清滝街道 距 楠公墓地□河内街道分岐二里」、右に「距 四條畷停車場 壹里三拾五丁五拾四分」、左に「距 大和國界 貮丁八間」、裏に「明治三十六年一月建之 大阪府」と刻まれ、各方面に対し詳しく距離が分かるようになっており、この地が、大和の国から河内、とりわけ四條畷に通じる要所であったことが分かる。 明治23年に四條畷神社が創建され、明治28年に片町から四條畷まで浪速鉄道が敷かれて四條畷停車場(現在の四条畷駅)が設置されたため、人の往来が多くなり、この道標は明治36年に建てられたもので、鉄道駅や小楠公墓地を案内している。                  

◆本来は上田原に立つ道標が、今は生駒市南田原に

次に、上田原の道標に触れておこう。 上田原地内には、古堤街道沿いに、西から西尾米店前道標、両国橋道標と2基ある。 西尾米店前道標は、高さ137センチ、横・巾とも24.5センチの尖頭形角柱で、正面に「右 古堤街道/郡山/奈良」、左に「明治三十九年五月建之 大阪府」、裏に「すぐ古堤街道/住道停車場/大阪道」と刻まれている。 古堤街道は、大東市中垣内から上田原を経て大和に通じる街道で、大正12年に改修されて現在の広い道路となったが、旧道は用水路に沿って曲折し、住吉神社では、境内の中を抜ける水路に沿って、現在道よりも20メートルほど北側を通り、上田原と下田原を結ぶ森山・岩船線に通じていた。本来、この道標は、水路に沿った旧道と森山・岩船線の接点に立っていたが、旧位置より南へ20メートルほど移動し、新しい広い道路の東側、電柱の陰に移された。そして、その後の道路の舗装に伴い、道標は遠慮しつつ道路端の路地に立つ事となった。 山口博氏は、「石造物調査報告書」のなかで、“時代の流れの中での人間の知恵の産物は、生かされねばならぬ”と、当道標も然るべき適所への移転が望まれる、と記しておられる。道標の道標たるゆえんを考えるとき、私も同じ思いに立つ。 今一つの道標は、両国橋道標で、昭和60年代の河川や道路の大規模改修の結果、今では奈良県側、生駒市南田原の地に立っている。 高さ195センチ、横27.5センチ、幅24センチと、田原地内の道標では最も大きい先頭形角柱の道標で、正面に「従是西北大阪府管轄」、右に「大阪府奈良縣境界線」、左に「住道郡山線北河内郡田原村大字上田原」、裏に「大正十二年十月建設」と刻まれている。 住吉神社から真東への道路を不動・中垣内南田原線と呼ぶが、天野川が東北琉して北流へ変わる田原地区の東端、上田原から奈良県生駒市南田原に架する橋を両国橋という。(写真 両国橋道標) 以上が田原に残る道標である。 2017.10.04 田原氏
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