阪奈エンタープライズ株式会社
ホーム
企業情報
会社概要
採用情報
お問い合わせ
緑のさと
ゴルフ場管理部
工事部
ガーデン・ナビ事業部
機械部
公共施設管理部
ホーム > みどりのさと > 第22回 田原に残る伊勢講、愛宕講の風習
記事一覧ページへ

◆講は、宗教・経済・社交上の目的を遂げるために組まれた結衆集団のこと

私は、田原地区の「照涌」という字地で生活しています。 この字地名は、緑のさとコーナーの第2回で取り上げた「民話・照涌の大井戸」の中で、かつて、日照り続きで水不足に悩んでいたこの地の人々が、弘法大師が通りかかり、お水を差し上げたところ、そのお礼にと、「ここを掘ってみなさい。」といわれて掘った井戸が、その後、絶えることなく常にわき水を蓄えるようになったことから命名された、とお話しました。 照れば照るほど水が湧く、照っても照っても水が湧く、が字名『照涌』(照湧とも書くことがある)の語源です。(写真下左:大井戸に掲示されている由来、写真下中:大井戸に掲示されている佐野さんのイラスト、写真下右:大井戸の様子) 若いころから父親に代わって地域づきあいをしてきたので、いろいろな地域の風習や慣習に触れることが多くありました。 今回ご紹介する様々な『講』もそうです。私が直接体験した行事は、愛宕講、伊勢講、砂絵、傍示挿し、とんど、ヨウカビ、お月見泥棒等です。この内、砂絵、傍示挿し、お月見泥棒についてはすでにお話しました。 ところで、「講」とはいったいどのようなものでしょうか。 元々講とは、宗教・経済・社交上の目的を達成するために組まれた結衆集団で、講の名をつけて呼ぶものです。当初は、仏典講究の学問僧による研究集会、または仏教儀礼を執行する仏事法会を指しました。 そして、この講が俗世間に広がりますと、在来の僧衆社会における講経的色彩が徐々に薄れていき、菩提を弔慰し、息災延命を祈り、一族の繁栄を願う現世利益の側面が表に出る傾向を助長していきました。 中世から近世に入りますと、陸運・海運とも交通網が発達し、交通の利便性が確保されるようになると、聖地巡礼や社寺参詣が盛んとなり、参詣講の結社組織が各地で作られました。これらは、頼母子講式に旅費を積み立て、講の代表を毎年順番に送り出す”代参形式”が多く、伊勢講、愛宕講、成田講、善光寺講などと称するようになります。 今風に言えば、○○会、○○サークル、○○クラブといったところでしょうか。 今回は、田原に残る講についてご紹介しましょう。

◆40年前、二人の子どもと登った愛宕代参の思い出

もっとも私の記憶に残る講は、愛宕講です。 今から40年近くも前の話ですが、私は、二人の子ども(確か就学前後だったと思います)を連れて、同じ隣組のおばさんと4人で愛宕山の愛宕神社に代参をしたことがあります。この時は、確か、愛宕山の南のふもとの村、水尾まで車で行き、そこから歩いて登りましたが、汗だくだくの私たちを横目に、一緒に登ったおばさんは全く汗をかかなかったのです。  「私は低血圧だから、汗をかかないの。身体にはよくないのよ。」といわれたことが、今でも記憶に残っていて、「しんどい。しんどい。」とぐずる子どもに比べて、汗もかかず飄々と登るおばさんが印象に残り、愛宕さん参りは忘れられない思い出となりました。  その後、確か3度ばかりの代参をしましたが、愛宕山の下から歩くことをせず、林道を使って高尾山のかなり高い所まで行き、そこから、上り下りの少ないほぼフラットな尾根筋を歩いて愛宕神社に参る、という手抜きをしてきました。 手抜きといえば、最近は、愛宕神社に参ることなく、「火迺要慎(ひのようじん)」のお札をネットで購入して、恰も代参してきたかのごとく、この札を配るという輩もいるとか。 また代参ではありませんが、15年ほど前、被災した時は、火防の神の庇護を祈って、参ったことがあります。 また愛宕代参については、8月1日に参拝すると、千日参拝したのと同じ御利益があるとか、直江兼続の兜の前立てに、「愛」をまとっていたのは愛宕信仰が故との説があるなど、風雪に聞いています。(写真左:愛宕神社、写真右:嵐山渡月橋から見える愛宕山/いずれもネットから転載)  

◆伊勢講は、ホテルや豪華な食事処で食事をする風習に変遷

次に伊勢講ですが、私の知る伊勢講は、代参でもなんでもなく、年に一回、隣組が輪番で集まって“食事をする”風習です。 かつての農家は、私の家もかつてはそうでしたが、玄関を入ると、最も日当たりのよい南側に座敷があり、普段めったに使うことのない部屋がありました。 この部屋は、すべて畳の間で、概ね「田」の字型に、4間あり、日当たりのよい、明るい南側の二間は“お客さん用“で、日当たりが悪く、どちらかというと暗い北側の二間は〝自家用”で、日常、居間や食堂などに使われていました。 伊勢講の当番が当たった時は、この南側の座敷に、座敷机が置かれ、座布団が集まる人の数置かれ、料理は、すき焼きに刺身、と決まっていました。すき焼きに使う肉も、普段家族が食べているような安物ではなく、高価な肉を奮発して準備したものです。 だから、伊勢講といえば、年に一回、各家を回って高価なすき焼き鍋をつつく行事と思っていました。 しかし、よくよく考えてみると、肝心の“お伊勢参り”が省略されて、参った人の話を聞いたり、労をねぎらって集まる、食事の風習のみが残ったようです。(写真:歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」/ネットから転載) 歴史を繙いてまいりますと、この伊勢講は、神社側の都合で仕掛けられたようです。即ち、中世の戦乱が続いた影響で、荒廃していた伊勢神宮が、その再建のために多くの人に参ってもらえるようにと、各地で暦を配るなど、宣伝をしたことが始まりのようです。 江戸時代といえば、商人や農民には厳しい移動の制限がありましたが、伊勢神宮参拝の名目で通行手形を発行してもらえば、ほとんど、どの道を通って伊勢に行っても問題はなかったようです。そしてまた、このお伊勢参りは多くの庶民にとっては、一生に一度の楽しい旅であったようです。 しかし、当時の庶民にとって、全国各地から伊勢までの旅費はかなりの負担で、それだけの金銭を用意するのは難しかったことから、「伊勢講」の制度が生み出されたようです。「伊勢講」を組み、お金を出し合い、代表者が講の全員に代わって代参するという制度です。 伊勢講で代参してきた人は、伊勢で神宮の札を買い求め、またお土産を買い、故郷に戻ると講の全員が集まって労をねぎらい、土産話を聞くという場=食事、この場=食事だけが独り歩きして残ったのです。 日本社会に広く流布している、お土産文化や餞別文化は、この伊勢代参が始まりとの説もあります。 しかし、子ども心に、僕もあのすき焼きを食べたいなあ、と思ったものです。 今日の伊勢講といえば、まるで様変わりをしてしまい、我が隣組でも、年に一回、この伊勢講と称し、ホテルや豪華な食事処で、うまいものを食べる行事と化しています。昨今は、近隣のお付き合いが希薄になってきましたが、このように、ただ食事をするだけでも、親交を温める場所があるという事は、地域活性化に大きく貢献しているのではないかと思います。 コンビニが全国各地にでき、近隣で、塩や醤油などの貸し借りがほとんどなくなってしまったようですが、ただ食べるだけでも、このような会が引き継がれていくことが必要ではないかと、つくづく感じています。 先日、隣組の班長さんから、「今年の伊勢講は、年明けでもいいですかね。」と相談されましたが、役にあたると、いつ、どこで、何を、と悩むようです。私は、「いいんじゃないですか。」と、応えました。 2017.11.06 田原氏
ページ最上部へ

ホーム企業情報会社概要採用情報お問い合わせ緑のさと
ゴルフ場管理事業部土木工事部ガーデン・ナビ事業部機械部公共施設管理部
芝管理の匠ガーデン・ナビサイトマップリンク

阪奈エンタープライズ株式会社