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ホーム > みどりのさと > 第23回 田原に残る地名調べ 注目される字地、「死人川」と「行ハカレ」
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◆貝原益軒の南遊紀行、砂村を須奈村と表記

四條畷の地名で印象の残るといえば、貝原益軒の南遊紀行に出てくる次の件である。                 飯盛山の由来について触れた後、“須奈村”があると書いているが、“この表記は、明らかに貝原益軒が音読みを誤ったものと考えられ、正しくは、砂村である”と理解をしていたが、この理解が誤りと知った時の驚きである。 今の表記が砂であるから、貝原益軒が書き誤ったと思い込んでいたのだが、実は、かつてこの地の表記に須奈が使われていることを知らされたのである。 この地の長老によると、かつて奈良の都の都人は、馬に乗って、兵庫沖の海辺に水泳に行ったというのである。即ち、奈良の都から馬で向かい、途中、この地で休憩をしたうえで、再び須磨(の海岸)に行ったことから、「須磨」と「奈良」の頭文字を取って、『須奈』と表記することもあったというのである。 青天の霹靂である。 しかし、聞いてみればまことしやかな話でもある。 かつて5世紀ごろから馬飼いの集落として発展した四條畷の地は、馬が休息を取るには、最適地であっただろうし、距離的にも、奈良と須磨のほぼ中間地点に立地しており、非常に説得力のある話である。また、夢のある話でもある。 このように、地名というものは、その地の歴史であったり、文化のにおいを感じさせてくれる。 今回は、田原に残る地名や字名について触れてみよう。

◆上田原、田原城址の字名は土井ノ内、城の下

私の手元に、「田原の字名」という資料がある。 この資料は、私の知人が、昔の土地台帳を基に作成したものであるが、上田原1番地から1971番地まで、また下田原1番地から2573番地まで、すべての地番について、その字名を一覧にしたものである。 まず、上田原について、見てみよう。 何といっても、目につくのは、「宮」「宮ノ前」である。上田原235番地の住吉神社のある場所の字名が宮で、道路を挟んで南側の一群の土地(上田原504番地から521番地まで)が宮ノ前である。宮という字名は、下田原にはないので、住吉神社が、上田原、下田原全体の氏神神社であったことをこの地名からもうかがわせる。(最初の地図:赤色の部分) 下田原には、宮という字名はないが、「若宮」という字名が残っている。下田原1447番地から1503番地までの二十数か所で、JA大阪東部農協田原支店のある一角のようだが、もしかすると、この地には住吉神社の摂社か末社があったのであろうか。(二つ目の地図参照) 次は、田原対馬の守ゆかりの土地である。 田原城があった場所、八の坪の田原城址本丸跡地周辺の一群の土地が、「土井ノ内」(上田原649番地から886番地まで、31か所)と「城ノ下」(上田原730番地から747番地まで、7か所)である。(最初の地図:東側の緑色の部分) 土井ノ内は、文字通り、土塁の中という意味のようで、明らかに城のあった場所を示しているし、城の下は、その北方の急斜面の下の北谷川沿いに広がる一群の土地である。 そして、田原城址本丸跡地の北方、北谷川と並行して走る古堤街道の北側に残る「矢の石」といわれる大岩があるが、此の辺の字名が「矢ノ石」(上田原748番地から765番地まで、16か所)そのものである。矢の石の大きさはほんの数メートルほどだが、字地の矢ノ石はかなりの面積である。田原城主の影響がこの地に与えた大きさが推し量られる。 今一つ、田原対馬の守の居城(殿様屋敷)があったとされる地には、「古城」(上田原281番地から290番地まで、6か所)と「上ノ段」(上田原283番地から355番地まで、20か所)がある。(最初の地図:右端の緑色の部分) 現在の正傳寺の西側の土地で、この辺りでは、少し小高い丘の上の一群の土地である。田原対馬の守は、通常、ここに生活し、緊急事態発生の時、八の坪の田原城に詰めたのであろうか。いずれにしても、二つの土地は、周辺よりも高いところに立地しており、遠望も利き、守備にもうってつけの場所であったものと思われる。 また、千光寺(現在の月泉寺)があったと思われる場所周辺には、「寺口」(上田原557番地から644番地まで、21か所)、と、その字地を南北から挟むように「寺谷」(上田原533番地から565番地まで、12か所と、同638番地の1か所)という字地が残る。千光寺は、田原対馬の守の菩提寺であったといわれており、字名にもその影響が残ったものと思われる。(最初の地図:茶色の部分) この地からは、日本最古の田原対馬の守のキリシタン墓碑が出土し、現在は、四條畷市立歴史民俗資料館に展示されている。また、出土したときの原形(発掘現場一帯)をそのまま消防署田原文書の南側に移築して史跡公園として展示している。 このように、上田原の字名には、かつての田原の歴史を物語る字地が多く残っている。 そして、私が、ある意味では、最も注目した字地として「死人川」(上田原1485番地から1538番地まで、27か所)がある。(最初の地図:青線でかこった部分) この地は、上田原の南西部の山中一帯に、広く広がっており、今でこそ開発され様相は一変してしまい、新しいニュータウンとしての町並みを形成しているが、子どもの頃、上田原から阪奈道路に抜ける道は、狭く、暗く、うっそうとした森の中を抜けていったものである。おそらく、このかつてあった道の北側に広がる死人川という字地は、昔は、人も入らない山中であったと思われることから、田原キリシタン弾圧のため、容赦なく、多くのキリシタンを殺戮し、埋葬した場所ではないか、と考えられないか。

◆下田原、寺のつく字名が5か所も

次に、下田原を見てみよう。 下田原の字名一覧を、1番地から並べてみると、先ず気に付くことは「寺」のつく字名が多いことである。  字名を地図に落とし込んでいくと、今も小字名として残る「滝寺」(下田原384番地から599番地まで、84か所)が広範囲に及ぶことがまず目立つ。 地元には、かつてこの地のどこかに滝寺があったとの伝承が残っており、そして、滝寺の南側には、かつての清滝街道を挟むように「滝寺前」(下田原590番地から608番地まで、19か所)が拡がり、東側には「土井」(下田原361番地から559番地まで、24か所)が広がる。土井の字名は城跡を意味することから想像すると、もしかすると、ここには滝寺の僧兵が住む館が建っていたのであろうか。相当勢力ある大きな寺が建っていたものと思われるが、現在、その痕跡は一つも残っていない。 そしてまた、滝寺の西側には、今下田原天満宮のある場所一帯だが、「天神山」(下田原528番地)の字名がある。神仏習合という観点から見れば、滝寺、滝寺前、土井、天神山で一つのまとまりをもっていたことが読み取れる。(三番目の地図参照) 片田地区には、「初尾寺」(下田原46番地から439番地まで、16か所)と「福両寺」(下田原259番地から333番地まで、12か所)の二つの寺の字が付くあざがある。(四番目の地図参照) 初尾寺は、片田の棚田一帯のほぼ中央に位置し、かつてこの辺りは村人が酒と肴を持って集まり、桃の木の下で宴を開いて楽しんだ場所と古老が語るところで、初尾寺の境内あたりであったかと思われる。また福両寺は、現在の法元寺が建つ場所である。 今一つ、「薬尾寺」(下田原1855番地から2030番地まで、12か所)がある。特に、田原の字名資料に載る下田原1855番地の備考欄に「溜池」と記されている通り、ここには、今も薬尾寺池があり、この池の周辺には、山野の湿地帯に自生する夏の花として知られるさぎそうの花が今も多生している。 そして、寺の文字はないが、「小松」(下田原145番地から2320番地まで、11か所)と、「小松阪」(下田原449番地から2560番地まで、24か所)が、下田原北西部に広く広がる。続群書類従・河内の国小松寺縁起によると、8世紀、荒山寺があったとされる場所に、田原郷の住人が草堂を作り、9世紀、そこに小松景光供養のために7間四面の堂一宇が建てられ小松寺と称した、とある。 この地からは、平安から鎌倉期の瓦が出土しており、この頃まで、小松寺は盛大を極めたものと思われている。また、戦国期には山城化した小松寺を小松城と呼んだ。加えて、この地に星田・水本・田原・四條畷・四条・住道の六ヶ村組合立の北河内郡公立飯盛青年学校ができ、戦後、かつての旧田原中学校はこの校舎を借りて開校したが、あまりの寒さにその年度内に移転を余儀なくされた<移転した場所は、現在の田原支所の北側の住宅地部分・一群の住宅の中央付近に「育英の地」の碑が建つ。>、との記録が残る。 このように見てみると、下田原よりも小さい村落の上田原に、正傳寺、森福寺、神宮寺、千光寺があったことから推して、下田原にも多くの寺院が存在していたのではないか、と指摘をしたことがあるが、時代は異なるものの、字名から推して5つの寺があったものと思われる。 現在の下田原地区は、片田、滝寺、野田、照涌と4つの小字がある。  「照涌」(下田原1053番地から1415番地まで、66か所)は、中央に「照下」(下田原1183番地から1262番地まで、7か所)を挟むように大きく東西2カ所に分布している。そして、弘法大師ゆかりの照涌大井戸のある地を含む一帯は照下の北側に位置し、「井の谷」(下田原1188番地から2518番地まで、8か所)となっている。弘法大師が示したとされる場所(大井戸のある位置)そのものは照涌とせず、まさに水の涌く谷として字名が付けられたのであろう。 それにしても、照涌に挟まれる照下の字名が示す意味は何であろうか。天野川が南から北に流れることからして、井戸のある井の谷の下は、その北側になると思われるのだが…。(最後の地図参照) 下田原でも、上田原の死人川につながると思われる字名を発見した。 それは、「行ハカレ」(下田原1746番地から1885番地まで、5か所)である。入手した古地図でその位置を確認することはできなかったが、地番の流れから見て、上田原と接する下田原の南西部の山中に位置すると思われる。 イキワカレの語源から判断して、生者を葬った場所、あるいは、生者と別離をした場所との意のようである。あくまでも想像の域であるが、死人川同様の地であったのではないだろうか。 字名に残る、地域の悲しい歴史が脳裏をよぎるが、田原キリシタンの史料は近年発見されたレイマン墓碑以外は皆無の状態で、今後の解明が待たれる。 2017.11.27 田原氏                
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