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2018.09.07

第33回 謎に包まれた継体天皇、何故、樟葉の宮で即位

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謎に包まれた継体天皇、何故、樟葉の宮で即位 ~ 即位に貢献した河内の豪族、河内馬飼首荒籠 ~  

●讃良の馬飼いリーダー河内馬飼首荒籠

古墳時代の四條畷一帯、讃良(四條畷はかつて讃良軍と言われていた。さんら、ささら、さらとも読む)は馬飼い集落を形成する牧場が広がり、古代の一時期、華やかな地域だったと思われる。言い換えれば、讃良は、朝鮮半島から準構造船という小型船に乗って馬を連れた渡来人が瀬戸内海、河内湖と渡り、住み着いた、当時としては極めて先進的な地であったともいえる。 四條畷市立歴史民俗資料館の野島館長は、「大和政権が讃良郡に牧を誘致し、馬の機動力を軍事制度に組み入れ新戦力としたことは容易に理解できる」とし、当時、馬がなくてはならない軍事力であったことを力説している。 四條畷=讃良に、馬飼い集落が広がっていたことを示す根拠は数知れないほどある。 大陸から馬が乗ってやってきた準構造船、蔀屋北遺跡から出土した井戸6基にはこの船のリサイクル品が使われていた。また同遺跡からは蒙古系馬一体分の馬の骨が良好な状態で出土した。さらに同遺跡からは、馬の口に嚙ませるハミや鐙も出土したが、南山下遺跡から出土した馬型埴輪は本物そっくりで、この埴輪が付けている馬具は蔀屋北遺跡から出土した馬具とほぼ同じものであったことから、この馬型埴輪の価値も大きく上がった。 更には、奈良井遺跡や鎌田遺跡からは、祭祀場跡と思われるところから、いけにえにされたと思われる多くの馬の頭骨も出土している。 (写真:四條畷市ホームページより転載)  

●継体天皇は即位前から河内馬飼首荒籠を知っていた

5世紀ごろの四條畷の地勢を考えると、前面を河内湖、背面が飯盛山、そして北から讃良川、岡部川、清滝川、権現川と4本の川に区切られた自然の牧場を構成していた。加えて、河内湖畔から飯盛山山麓にかけてなだらかな傾斜地であったことが、馬の飼育に大きな効果をもたらしたものと言われている。 四條畷市のホームページによると、讃良の馬飼いは、天皇家などに育てた馬を献上するだけではなく、天皇や豪族が馬に乗る際には従者として彼らに従い、そばに仕えることで様々な情報を得ることができました、とある。  渡来人であったと考えられる河内馬飼首荒籠(かわちうまかいのおびとあらこ)は、河内地方の地方豪族、馬の養育に従う馬飼部のリーダーとして良質な牧、讃良で活躍していたものと思われる。つまり、河内馬飼首荒籠は、河内を本拠として、王権に奉仕し、当時の大和政権の事情なり情報なりにはかなり詳しかった、精通していたと思われるのである。 このことから、河内馬飼首荒籠は、当時大和政権の中枢にいて国政に携わり、大連を務めていた大伴金村の意向を受ける立場にあったとも考えられる。 507年、武烈天皇が崩御すると、大伴金村らは丹後の国にいた倭彦王に白羽の矢を立てるが成就せず、次に、越前にいた応神天皇5世の孫にあたる男大迹王(をほどのおおきみ)を推挙した。しかし、大和政権の大伴金村らに対して疑いを持っていた男大迹王は即位をためらう。 ここに、讃良=四條畷にゆかりの人物、河内馬飼首荒籠が登場するのである。 継体天皇と河内馬飼首荒籠については、井上満郎(京都産業大学名誉教授)論文「継体天皇と河内馬飼首荒籠」が詳しいし、興味をそそる内容である。 即位をためらった男大迹王は、「適」河内馬飼首荒籠を知っていたという。そして、井上論文は、この「適」はいずれの刊本も「たまたま」と読んでいるが、寛文本には「マサニ」の訓が付されているとして、継体天皇は即位以前、迎えられる前の越前時代から河内馬飼首荒籠を知っていたことになる、という。続けて、同論文は、継体は使いを出して、大臣や大連らの「本意」を河内馬飼首荒籠に確認をし、即位を決意したと続ける。 河内馬飼首荒籠が、継体天皇即位に果たした役割がいかに大きかったか、また、馬飼い集団がいかに重要な情報を持つ立場にあったかを窺い知ることができる。 継体天皇が謎の大王と呼ばれる最大の理由は、応神天皇5世の孫とされるとともに、なぜ、大和政権からかけ離れた地の樟葉の宮で即位をしたのか、という疑問である。(写真:福井市足羽山の継体天皇像/ネットより転載)  

●大和の国の海外生命線上に位置した樟葉

井上論文は、この疑問に明快に答えるものである。 結論から言うと、<瀬戸内―淀川―琵琶湖―日本海>とつながる倭の国の海外生命線=海上輸送網と密接にかかわっての即位!との論理展開である。 まず、継体が即位した樟葉の地だが、ここには奈良時代から「河内の国交野郡楠葉駅」が置かれ、木津川から淀川に入って樟葉に達するという要衝の地であった。また樟葉には「渡」も存在した。 継体が育ったのは、三国湊でよく知られるという九頭竜川河口の三国町(現在の坂井市)で、北陸沿岸部の日本海海運の要港を控えた地であった。 そして、継体は、東アジア世界との関係を構築していたといい、朝鮮半島―穴門・出雲―敦賀と、山口県から福井県に至る日本海経由あるいは日本海横断の航路・交通路が存在していたことは間違いない、という。 このように、日本海=北海は、日本列島とアジア・ユーラシアを結ぶ回廊の役割を果たしており、日本海―琵琶湖―淀川―瀬戸内というアジア大陸の文化・文明ルートがあったことは間違いなく、継体の即位がこのような環境下にあったという事から、その要衝の地、樟葉で即位したことを積極的に受け止めるべきである、というのである。 継体は、樟葉の宮以外に2か所に宮を移すことになるが、そのいずれもが当時の大和政権の本拠地より、淀川水系に接する樟葉・乙訓、淀川に続く水系である木津川に接しており、明らかに国際情勢の展開とそれへの大和の国の対応を原因・背景とする、いわゆる積極的な遷都であった、と結論付けている。 いや、この井上論文との出会いは、継体天皇を理解し、河内馬飼首荒籠を知る上で、目からうろこであった。 なんで北陸の王が誕生? なんで樟葉で即位? 継体と荒籠の関係は? このすべてに明快な回答を得た気がする。 四條畷=讃良ゆかりの人物、河内馬飼首荒籠の活躍ぶりが想像できる5~6世紀ごろの壮大なスケールのロマンを感じることができた。 2018.09.05 田原氏