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2018.10.22

第34回 大久保利道

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明治8、楠公遺跡めぐりで小楠公墓所を訪れたか?!

大久保利通揮毫の小楠公碑、「贈従三位楠正行朝臣之墓」

 

●日本的な近代政治家の原型を造った大久保利通

大久保利通は、文政13年(1830)生まれ、明治11年(1878)に暗殺され死亡した。

 明治維新の指導的政治家。家は城下士の下級、御小性組に属し、3歳年上の西郷隆盛とは同じ町内で遊び仲間であった。

嘉永6年(1853)利通は「精忠組」と名づける尊皇攘夷派を結成し、その領袖として藩主を立てて挙藩勤皇の実現に勤めた。慶応2年(1866)の第二回長州征伐には西郷とともに反対し、その年、その翌年と京坂にあり岩倉具視と結んで倒幕のための朝廷工作にあたり、慶応3年(186712月の王政復古クーデターには宮中に入って政変遂行の采配を振るった。

明治元年(18684月、新政府の参与に任ぜられ、薩摩・長州派の首領として政務の中枢に参画、明治2年(1869)の版籍奉還、明治4年(1871)の廃藩置県にあたっては積極論の木戸孝允と慎重論の利通が協力することによって中心的な役割を果たした。大久保は西郷隆盛・木戸孝允とともに維新の三傑と言われた。幕末には藩庁、維新後は中央政府と一貫して権力の座に連なり、遂に最高の実力者となったもので、下野ないし反抗を繰り返した木戸・西郷とは違っていた。官僚組織を使って政策を立て実行する官僚政治家であり、日本的な近代政治家の原型を作った。

 四條畷市雁屋の小楠公墓所に立つ巨大な石碑の文字「贈従三位楠正行朝臣之墓」は、大久保利通の筆による。

 

義に生きた正行、西郷隆盛 一方、政治に生きた大久保利通

 大久保利通は、明治8年、楠公遺跡めぐりの旅に出ている。

 この時、千早赤阪村を訪れ、楠公誕生地の石碑を造営、建立したのが大久保利通。

 四條畷の雁屋にある小楠公墓所は、全国の建碑運動に呼応するように、明治8年に拡幅工事に着手し、3年後の明治11年に今の形の小楠公墓所が完成している。7メートル50センチの巨石碑の揮毫は大久保利通によるもので、恐らく明治8年の大久保による楠公遺跡めぐりの一環として当地を訪れ、揮毫したものと思われる。

 湊川神社発行の「大楠公」(非売品・特別頒布)によれば、昭和58226日、この揮毫の元となった大久保利通謹書「小楠公墓碑名」が、奈良市の谷本久治氏より湊川神社に奉納された。そして、長く湊川神社に保存されてきたが、平成3123日、前年の四條畷神社鎮座百年祭と、同年のNHK大河ドラマ「太平記」放映とを記念して、この大久保利通筆小楠公墓碑銘原本が湊川神社より四條畷神社に譲渡、贈呈されたとある。

 私は、大久保利通が楠公遺跡めぐりで、どの地の、どの遺跡を巡ったのかを調べてみたが、詳細は分からなかった。

 しかし、幕末から明治維新にかけて、倒幕・王政復古の急先鋒の一人として新政府樹立の先頭を走っていた大久保利通が、天皇親政を夢見て吉野朝に尽くした楠公父子を敬愛していたであろうことは想像に難くない。

 西郷隆盛を倒し、内務省を設置し、日本の官僚制度の基礎を作ったといわれている大久保利通。

楠公遺跡めぐりという名のもとに、楠公ゆかりの地を訪れた大久保利通の尊王精神の原点には、恐らく、建武の中興から南北朝時代に果たした楠氏一族の吉野朝復権による天皇親政を支えようと一途と言えるまでのただ義一筋の生き方、があったのではないか。

西郷隆盛は理想主義者であり、ある意味では楠木氏に相通じる側面が多くあったと思われるが、一方、大久保利通は現実主義者・官僚主義者として生き、情を断ち切ってでも新政府の樹立に、ある意味では極めて冷静・冷酷に立ち向かっていったものと思われる。

歴史に「もし」はないが、もし、楠正行の生きた時代に大久保利通がいたならば、天皇親政実現のためには、北畠親房を筆頭とする吉野朝主戦論に体を張って立ち向かい、策をこらし、巧妙に立ちまわって、楠氏の軍事力を背景に、足利尊氏との和睦を実現し、吉野朝復権という実利を勝ち取ったのではないか、とも考えてしまう。

有り得ない話だが、どうか、四條畷市雁屋の小楠公墓所を訪れ、大久保利通揮毫の巨石碑『贈従三位楠正行朝臣之墓』にお詣りいただき、この書を書いた当時の大久保利通の心境に思いを寄せてみてください。

 

2018.10.22 田原氏