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2018.11.07

第35回 織田信長

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キリシタン武将・田原対馬の守が京都相国寺で謁見した織田信長

信長は本当にキリシタンを庇護・厚遇したのか?

 

●織田信長は本当に神仏への礼拝・尊崇を軽蔑したのか

 織田信長とキリシタンに関する面白い論文を見つけた。

 東洋大学文学部紀要・史学科篇に掲載された神田千里氏の「ルイス・フロイスの描く織田信長像について」と題する論文である。

 この論文は、日本人にはなじみのないキリスト教にいち早く好意を示す一方で、仏教など在来の信仰を行う寺社や僧侶には厳しい態度を取ったとされる信長像は、そのことを明快に提示したイエズス会宣教師の史料がほとんどであり、日本側の史料でこのことを示したものはほとんどないといってよいが、果たして宣教師たちの述べる通りの宗教観の持ち主であったのか否か、を再検討している。

 論者は、織田信長が特に信仰を持たず、日本の在来信仰を軽蔑していたことを明快に述べた資料の一つとして、ルイス・フロイスの「日本史」の中の一節を挙げ、信長の宗教観に関する部分を要約して、①神仏への礼拝・尊崇を軽蔑すること、②異教の占いや信仰も軽蔑していること、③霊魂の不滅、来世の賞罰を否定していること、とみている。

 では、この点、日本側史料から如何に裏づけられるか、との視点から論を続ける。

 日本側史料として、当時の大名らが合戦に際して寺社に戦勝祈願を依頼し、その祈願の神事ないし仏事を遂行したことを証明する寺社側の報告書(通常『巻数』と呼ばれる)に対し、礼状を認めている点に着目し、信長においても信長の手になるかなりの数量の巻数への礼状を確認できるとして、17通の信長の礼状を列挙している。

 これらの史料分析の結果、織田信長は出陣をする際、大覚寺、仁和寺、清蓮院、醍醐寺三宝院、同理性院など京都の寺院、摠見寺、また上賀茂神社、松尾神社、多賀神社などの神社や伊勢御師などに対して祈祷を依頼していたこと、そして年頭の祝儀として祈祷を行う御師や寺社に対しても感謝の言葉を伝えていたことが分かる、とする。

 即ち、フロイスの記述とは著しく矛盾する事実が明らかだというのである。

 

●信長は、イエズス会や宣教師らに特段に好意的ではなかった

 そして、フロイスの記述をよく読むと、信長は「神及び仏の一切の礼拝、尊崇」を軽蔑していると同時に、「当初は名目上、法華経に属しているようにみせていた」との記述や「若干の点、禅宗の見解に同意」していたとの指摘もみられるとして、この点の手掛かりを「長篠合戦図屏風」の画像に拠っている。

 この長篠合戦図屏風の六曲一双の左の端に、馬周り衆とおぼしき武士たちを従えた織田 信長と織田信忠それぞれの姿が、織田家の旗頭である永楽銭を描いた旗指し物を背景に描かれている。

 論者が注目したのは、信長の背景に描かれた三本の旗指し物の上に翻っている麾(まねき:旗指し物の棹の頂辺に付ける小旗)に、「南無妙法蓮華経」の文字を読み取ることができる、という。(写真:神田論文掲載画・長篠合戦図屏風・信長の陣 図2 より転載)

 そして、武田信玄や上杉謙信、徳川家康の例を挙げ、戦国期の武将たちが戦場に神仏の名前や経典等の句を記した軍旗を携行した事実は著名であるとして、長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の姿は、法華の題目の霊力を頼み「その加護に身をゆだね」た法華信仰の姿を現している、というのである。

 論者は、結論として、「神及び仏の一切の礼拝、尊崇」を軽蔑しているとのフロイスの記述は、実情からはかなり乖離した、イエズス会宣教師の教義上の立場に偏したものと考えられる、という。

 続けて論者は、一般に織田信長はイエズス会を厚遇したとされているとしながらも、「信長公記」に、天正6年、摂津の国荒木村重が毛利方に寝返った際、織田信長は、荒木村重と行動を共にする高山右近が、織田方に「ご忠節仕り候様に才覚」することをイエズス会に指示し、もしそうすれば『伴天連門家何方に建立候共苦しからず。もし御請申さず候はば宗門を御断絶なさるべきの趣仰出」されたことが記されていることを示し、分析の上、織田信長のイエズス会との関係を以下、結論付けている。

 織田信長がイエズス会に対し、自分にとって有利な行動を行う限りにおいてはその活動を認めるものの、それができない場合には解体することも辞さないと表明している点を挙げ、少なくとも言説においては仏教諸教団に対するものと大差がないと云えよう、と。

 結果、織田信長はイエズス会とその宣教するキリスト教について、特段に好意的とは言えないと結論付ける。

 そして、フロイス日本史は、かなり複雑な著者の立場が反映された結果、幾多の立場の異なる記述を含んでいる可能性がある、とも。

 

●田原対馬の守の信長との謁見は歴史ロマンであったのか

 信長の宗教観というよりも、天下布武を目指す武将の頭領として、宗教も政治の道具として利活用していた信長像が透けて見える。

 次号で述べるが、多くのキリシタン大名らと一緒に田原対馬の守は、京都相国寺に織田信長を訪ねているが、キリシタン武士であるがゆえに優遇を受けて謁見が叶ったものではなく、単に、信長になびくことを条件に謁見が叶ったのであるとすれば、歴史ロマンどころか、一抹の寂しさを禁じ得ない。

 

2018.11.7 田原氏