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2018.12.04

第36回 フロイス

ブログ

田原対馬の守と織田信長を結びつけたルイス・フロイス『日本史』

田原の地ゆかりの人、フロイスの軌跡をたどる

 

●「河内キリシタン関連資料集」(四條畷市村上学芸員)で繙く

 ポルトガルのカトリック司教、ルイス・フロイスは、イエズス会士として戦国時代に日本で宣教・布教にあたり、貴重な資料「日本史」を記した。

 田原城主、田原対馬の守に関する文献がほとんど残っていない中で、ルイス・フロイスの書いた「日本史」に田原の地名、そして田原対馬の守(田原レイマン)の名前が登場することで、今まで分からなかった田原キリシタン・田原対馬の守の生涯の一部が見えてきた。この限りにおいて、ルイス・フロイスは田原に非常にゆかりの歴史上の人物の一人と言える。

 私のもとに、20097月、四條畷市教育委員会の村上学芸員がまとめた「河内キリシタン関連資料集」がある。この資料集には、室町時代から今日に至る河内キリシタンの出来事が詳細にまとめられている。この資料集を繙きながら、田原対馬の守の表舞台登場の歴史や河内キリシタンの歴史を、フロイスの活動を見ることで検証してみよう。

 

●田原レイマン、相国寺に滞在する信長に謁見

 永禄6年(1563)、長崎に上陸して日本での布教を開始したフロイスは、永禄8年(1565)、京都入りを果たすと、13代足利将軍、足利義輝と謁見をしているが、松永久秀らの運動によって亰から追放され、堺に逃れるが、このとき、はじめて四條畷の地を訪れている

 この年7月、フロイスは、三箇サンチョに招かれて、枚方を過ぎ、飯盛、砂、三箇を訪れるとある。そして、翌8月には三箇から堺に向けて出発、とある。しかし、永禄10年(1567)に入ると、四旬節の頃、堺で三好軍と和田軍が開戦したため、再び三箇城(飯盛城)に戻り、ここで布教活動をしている。

 元亀2年(1571)に入ると、10月、フロイスはオルガンティーノとともに織田信長に謁見、12月には、同じく二人で足利義昭の下を訪れ、ついで岐阜の織田信長をフロイスとロレンソが訪問している。元亀4年(1573)にもフロイスは単独で足利義昭に謁見をしているが、時の権力者への接触によって布教活動に積極的に動いていたことが読み取れる。

 そして、天正2年(1574)に入ると、田原に関する記述が増えてくる。

 同年98日付、フロイス書簡によると、「…その旅行は無駄ではなく、三箇殿の一元老はキリシタンになった。彼は、田原の城主で、その改宗は大いにキリシタンの喜びとなり、これがためにその家臣がキリシタンになることが期待されるにいたった。」とあり、田原対馬の守がこの時洗礼を受けたことが分かる。

 翌天正3年(15754月、フロイスは三箇で聖週と復活祭を盛大に開き、甲可・若江・田原・堺など各地のキリシタン約300人が集まった、とある。

 そして、同年54日付のフロイス書簡には、「…復活祭の1週間後(410日)フロイスは三箇を出、堺と烏帽子形のキリシタンを訪ね、ついで都に至り、オルガンティーノとともに信長から親切に迎えられた。池田丹後の守、三箇マンショ、結城ジョアン、田原レイマン、その他河内のキリシタン武士も信長に挨拶に赴いた。」とある。

 この時、織田信長は京都の相国寺慈照院に滞在していたもので、田原対馬の守はキリシタン武将の一人として、滞在中の信長に謁見したことが分かる。田原対馬の守の事績に関する史料が皆無と言ってよい状態で、このフロイス『日本史』に載るこの件は、田原城の城主、田原対馬の守と天下人、織田信長のつながりを明らかにした大変貴重な発見と言える。

 天正4年(1576)、この年織田信長は安土に移り、安土城の築城に着手し、石山本願寺を攻めるとともに、飯盛城も攻め、飯盛城は陥落、廃城となる。

 この年、8月には、フロイスは河内に滞在し、その間に、甲可や若江、田原、堺のキリシタンの告白を聴き、大赦を与えるとあり、9月には、フロイスとロレンソが京へ戻る前に、三箇の教会付近に大きな十字架を建て、また岡山に赴き、十字架を建て、26名がキリシタンになる、とある。そして、フロイスはこの年の年末から翌年明けにかけて、兵庫から豊後府内(九州)に移り、その後天正9年(1581)まで、豊後の地区長として活躍したとあり、四條畷や田原の記述は見られなくなる。

 

●田原に建てられた立派な教会は、どこにあったのか

 フロイスが九州に去った後、天正5年(1577)、結城弥平次と結城ジョアンによって岡山に新しい教会と司祭館を建てるとあり、同年728日付ジョアン・フランシスコ・ステファノーニ書簡に「岡山殿(結城ジョルジ弥平次)がはなはだ大きく収容力のある新教会を建てたほか、非常に美しい十字架も一基建てられ、それより教会に至る道が真っすぐになるよう数軒の家を取り除き、一つの極めて美しい野原に道をつけた。」と記されている。

 また、「グスマン東方伝道史」下巻第8編第17章には、「…この外にそれに(三箇、高槻、岡山、若江の教会)劣らぬものが田原、甲賀城にたてられた。」と載るが、この田原に建った教会に関する史料は全くない。いったい、田原のどこに、どのような教会が建っていたのか、その痕跡が全く残っていない。また、岡山の教会も、この後、天正11年(1583)豊臣秀吉の大阪城築城に合わせて大阪城(具体的な場所は明らかにされていないが、一説には、寝屋川と淀川が合流する少し手前の天満辺りではないかと言われる)に移されるが、その痕跡も残っていない。誠に残念な限りである。

 天正6年(15781016日付フロイス書簡によると、この頃のキリシタンの人数が以下載っている。都(京都)200300人、高槻領内8000人、岡山領内2000人、三箇領内2000人、近畿地方12000人。岡山領内2000人と言えば、この頃のほぼすべての領民がキリシタンに改宗していたのではないかと思われ、四條畷にキリシタン文化が花開いていたことが想像される。また、この2000人に含まれるのか含まれないのかは分からないが、田原にも一定数のキリシタンが居たものと思われる。

 

●レイマン墓碑、慶長12年ごろ、隠されたものか

 この後フロイスは、天正11年(1583)に九州の地で「日本史」編纂の命を受け、天正14年(158612月、下関で「日本史」第1部を完成させている。

 そして、田原の地では、天正11年(1581)田原対馬の守が亡くなる。

 このことは、平成に入り、田原地区の民間開発に伴う発掘調査によって、千光寺跡と思われる土塀の基礎部分の下から「天正九年辛巳 礼幡 八月七日」と刻されたキリシタン墓碑が発見されたことによって、ルイス・フロイスの記した田原対馬の守とこの墓碑の銘が一致したことから明らかになったものである。

この墓碑については、今年3月の第27回に取り上げているので、詳細はこちらを参照ください。いずれにしても、これまで日本最古のキリシタン墓碑と云えば、八尾市で発見された天正10年の墓碑であったが、田原レイマンの墓碑発見によって、四條畷市にとって、大変貴重な日本最古のキリシタン墓碑が誕生したのである。

フロイスは、日本史第1部完成後も九州、主に長崎にその痕跡を残しているが、天正15年(1587)秀吉が伴天連追放令(「定」5カ条)を発布し、日本人を含む宣教師の追放やキリスト教を布教する者の来日禁止、十字架がついた旗の撤去、教会建設予定地とイエズス教会等の没収等を命じたことから、キリシタン布教の活動は停滞期に入っていく。

天正20年(15922月に長崎でロレンソが亡くなり、「三箇マンショ、文禄の役に従軍するも理由なく帰され、小西行長の領地天草上津浦で知行を与えられる」との、三箇マンショに関する最後の記事がみられる、とある。このことを裏付けるように、天正20年(159211月作成イエズス会目録のキリシタンの人数には、豊後等22000人、有馬68000人、大村40000人、長崎30000人、天草諸島35000人、平戸等7500人とあるが、河内キリシタンの地名、岡山、飯盛、三箇、田原等悉くなくなっている。

そして、文禄6年(1594)、秀吉がキリスト教徒を長崎で処刑したことと軌を一にするように、フロイスはマカオに赴く。文禄5年(159612月、秀吉は京都大坂の宣教師たち24名を逮捕し、長崎へ護送中に加わった2名を合わせて、慶長2年(15972月、長崎の西坂で三木パウロらキリスト教徒を礫殺(26聖人)する。フロイスはこの26聖人の殉教を見届けた後、7月、長崎の地で死去した。享年65歳。

なお、慶長17年(1612)、徳川幕府によってキリシタン禁止令が出されたことから、田原対馬の守(田原レイマン)のキリシタン墓碑は、この頃、菩提寺であった千光寺の土塀下に隠したものではないか、と思われる。

よもや世に出ることはないだろうと土塀下に隠された田原レイマン墓碑が、平成の世になって表れたのだが、これも四條畷の文化財に対する篤い思いが出現させたものと、心より感謝する。(写真:2枚とも、「河内キリシタン関連資料集」表紙に載るイラストを転載したもの)

 

 

田原の里コーナー終了のお知らせ

 平成28年(20163月から、このコーナーを担当・執筆してきましたが、ほぼ3年間、36回にわたってお届けしてまいりました「田原の里」コーナーを終了させていただく事になりました。

 3年間にわたり、このコーナーをご愛読いただきました皆様にお礼申し上げます。

 阪奈エンタープライズ㈱では、現在のホームページの全面リニューアルの作業を進めています。新しい阪奈エンタープライズ㈱のホームページでも、地域の歴史や文化に関わるコーナーの更なる充実が図られるものと期待しています。

 今後とも、阪奈エンタープライズ㈱のホームページにアクセスいただき、社業へのご提案やご叱責等を賜りますよう、よろしくお願いします。

         平成30123日                  田原氏